「あなたなんか、産むんじゃなかったわ」
母はスピカの背を向け、お酒を口に含みながら呟く。
言うだけ言うと、グラスの入っていた酒を飲み干した。
聞いた瞬間、スピカは怒りと悲しみの感情で胸が一杯になった。
今日も仕事で嫌なことがあったのだ。家に帰ってくるなり母は酒を飲んで、溜まった鬱憤を晴らす。
給料は良いが、その分仕事の内容はきつい。それでも辞めずに娘のスピカを養うために必死に働いている。
飢えずに生きていけるのも母のお陰だが、度々スピカを傷付けることを口走るようになった。
仕事の大変さもそうだが、離婚のことも精神的な打撃になっているのだ。
ずっと我慢してきたが限界だった。感謝もしているが、子供の人格を無視するのは許せなかった。
スピカは早足で母の元に近寄るなり、お酒の瓶を取り上げ、壁に投げつけた。
大きな音を立て、中身が地面に浸透する。
母はスピカを睨んだ。
「何をするの」
母は手をぷるぷると震わせた。声を出す度に酒の匂いが鼻腔を付く。
スピカは思わず表情をしかめた。
ハンスがこの場にいなくて本当に良かったとさえ思った。酒で酔いつぶれた母の姿を弟には見せたくない。
昔の母は酒など飲まず、上品でドレスの似合う女性だった。
それが今では、酒に頼らずにいられない人間になり、いたたまれない気持ちになった。
「いい加減にして、わたしが傷つかないとでも思ってるの!?」
スピカは思わず怒鳴り声を上げる。
「母さんが言っていることは酷いわ! あんまりよ!」
涙が零れ、スピカの頬を伝う。
母は黙ったまま、下に目線を向けた。
酒を割る娘の行為と、そして娘の涙によって、何かを感じたのだろうか。
蓄積されていたスピカの気持ちは止まらなかった。
「大嫌い! もう知らないんだから!」
乱暴に涙を拭い、スピカは母に背を向け、自室へ戻る。
スピカはバックを取り出し、生活に必要な物を手早く詰め込んだ。
その際、涙が再び溢れたが、今度は拭わなかった。

もうこんな家には居たくなかった。家にいても母には暴言を吐かれ、逃げ場が無い。
例え不自由な思いをしても、自身の力で生きた方が良いと考えた。

スピカが十五歳の時に、母を置いて家を出た。
自分らしく生きたい、その一心で。

双子の前には母がいた。
スピカは三年、ハンスは十一年ぶりに目にする姿だった。
母は痩せていて、双子と同じ黒髪は艶がなく白髪が混じっている。
スピカは戸惑いを隠せなかった。同時に何故母がこの場にいるのか疑問が沸いた。
「おやおや、お久しぶりですね、お母さま」
ハンスは皮肉をたっぷり込めて言った。
「あなたはお呼びではないのですよ、どうして来たのですか?」
「お前を止めるためよ、ハンス」
母は双子の元へ静かに歩いてきた。
ハンスは剣の束に手をかける。
「邪魔をするなら容赦しないよ」
「しばらく大人しくしていなさい」
母は水色の水晶を取り出し、宙に掲げると、水色の輝きが放出された。
次の瞬間、信じられない事が起きる。
水色の輝きがハンスの全身に纏わりつき、ハンスはまるで石のように動かなくなってしまった。
母はスピカの側に来た。こうして近くでみるのも久しぶりである。
「どうなっているの?」
「魔法の水晶で動きを止めたの、護身用で持ってたんだけど役にたったわ」
母は水晶をスピカの前に見せた。
スピカは「そう」とそっけなく言うと、目線を反らした。
母へのわだかまりが、完全に消えた訳ではない。
「拘束を解いてあげるわ、魔法の効果も長くは持たないでしょうから」
「良いわよ、こんなの自分で外せるわ」
スピカは棘を含む言い方をした。
拘束から抜けることは先輩に教わったので、ハンスが目を離した隙を見てやるつもりだった。
「腕を怪我しているじゃないの、その状態じゃ傷口に触るわよ」
「こんなの大したことないわ」
母の指摘に、スピカは反論し、拘束を自力で解除しようと試みる。
だが、母の言うことが正しいと分かった。
腕を動かすと激しい痛みに襲われ、表情を歪めた。
「ほら見なさい」
母は額に手を当て、呆れ顔になった。
「頑固なのは変わらないのね、そういう部分はお父さんに似たのね」
スピカは何も言えなかった。
気が進まないが母に外してもらうことにした。
縄を解いている間、スピカは恥ずかしいような、嬉しいような気持ちになった。
しばらくすると束縛から解放され、スピカは負傷した腕を庇いつつ腰を上げる。
「腕も手当てしてあげるわ、痛むでしょう」
「……」
スピカは黙ったまま、母に腕を向ける。
下手に意地を張っても仕方ないと思ったからだ。
「ちょっとしみるけど我慢してね」
母は手馴れた手つきでスピカの腕に薬を塗る。母の予告どおり傷口に薬がしみてスピカは沈痛な面持ちを浮かべる。
しかし声は出さなかった。母の治療を邪魔したくなかった。
子供のままだと思われるのも嫌である。

『うえーん、痛いよう』
『ほら、泣かないの、男の子でしょう?』

この時の母は、幼い頃に手当てをしていた母そのものだった。
膝を怪我して泣いていたハンスに優しい言葉をかけて、薬を塗って手当てしていた時と同じ穏やかな表情をしていた。

母をよく見ると、目元に隈ができており、腕も痩せ細っていた。
時の流れを痛感した。

「これで良し、終わったわよ」
母は微笑んだ。スピカは腕をそっと引っ込める。
「あまり動かすと傷口が広がるからね」
母に忠告され、スピカは首を軽く縦に振る。
礼の言葉を述べたかったが、母に対する不満が邪魔して口に出せなかった。
事が済んだので、いい加減本題に入りたかった。
「……どうしてここに来たの?」
単刀直入にスピカは切り出した。
「それが助けてくれた人に対する言葉ですか? 有難うは?」
母はむっとして、スピカに注意する。
忘れていた。母は礼儀に厳しい人で、細かい部分に口うるさい。
無理矢理入ろうとしても、今のことを途中で話題に上げるだろう。
ハンスにかけた魔法もいつ解けるか分からない。時間が切迫している今は悩んでいる余裕は無い。
「あ……有難うございます」
スピカは頭を下げて礼を言った。本心では思っていないが。
言葉にしたたげでも満足したようで、母は「よろしい」と言うと、ここに来た経由を説明した。
「母さんがここに来たのは他でもない、ハンスを止めるのと……あなたを救うためよ」

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