突き刺す寒さが身に染みる中、スピカは独りで大きな白い建物の前に来ていた。
そこが、ハンスが指定した病院だった。
仕事の都合上、スピカもたまに世話になる。
怪我の治療もそうだが、風邪を引いた時に打たれた注射は苦い思い出。
「……え?」
門に来るなり、スピカは違和感を抱いた。普段なら鍵がかかっている門が開いているからだ。
まるでこちらを誘っているようである。
「おいで、ってことね」
病院の思い出を頭の中から振り払い、スピカは辺りに人がいない事を確認し、病院の門を潜る。
本館に通じる中には綺麗な花が咲いてる。見ていると、心が和む。
花の名前は分からないが、どれも美しい。
花に導かれるままに、中庭を通過し、受付に続く扉の前に辿り着く。
ここまで来て、異臭に気付き、スピカは鼻を押さえる。
「なにこれ……」
酷い臭いに、スピカは吐きそうになった。
今まで嗅いだことのない臭いに、言葉を失う。
しかし、ハンスとの約束がある以上、進まないわけにはいかない。
口と鼻を手で覆い、意を決し、スピカは扉を開く。

……そこで見たのは、世にも恐ろしい光景だった。

「いやああああっ!」
スピカは思わず叫び、後ずさりて、開いたばかりの扉に体を打ちつける。
彼女の目の前には、老若男女問わず人々の死体が転がり、足の踏み場もない程だ。
あまりにも悲惨な状況に、スピカの表情は青ざめる。
臭いの正体は、この場にある死体が発するものに違いなかった。
悲惨な場面に心が耐え切れず、スピカは死体から目を反らし、その場で嘔吐した。
「誰が……こんな惨いことを……」
息を切らしながらスピカは呟く。
最悪な想像が過ぎる。ハンスがやった。
しかしスピカが知る彼は、虫一匹も殺せない優しい少年で、残酷な行為をするとは考えられない。
別の人間がやったと信じたい。
ここに来て、スピカは自分がいかに軽率な行いをしたのかを痛感した。大勢の死体があるということは
危険な犯罪者が近くに潜んでいる可能性が高い。
ハンスに会いたい気持ちに嘘はないが、惨状を目の当たりにして、不安の気持ちが強かった。
もはやハンスどころではない。
「警察に通報しなきゃ……」
ふらついた足取りでスピカは立ち上がり、扉のドアノブに手を掛ける。
しかし、扉はまるで固い物にでも押さえ込まれているように開かない。
何度か体当たりをしたが、びくともしなかった。
「まだ気付かないのかい」
部屋全体に、懐かしい声が満ちた。
余韻に浸る間もなく、突然スピカの横に大きな影が飛んできた。
ぐしゃり、と嫌な音を立てて、影は地面に落ちる。
スピカは影の正体を認識するなり、その場で固まった。
影……いや、死体にはおびただしい傷跡が残されていた。どの傷も刃物で刺されたもので、表情は恐怖で歪んでいる。
「久しぶりだね、お姉さま」
スピカは壊れた人形のように、ゆっくり後ろを振り向くと、十一年間ずっと探し続けていた姿がそこにあった。
スピカと同じ漆黒の髪と、紫色の双眸、紛れも無くハンスだった。
「ハン……ス……」

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