『目を瞑れ』
キルシュがフィオーレを見て考えていると、ヴァイハからテレパシーが飛んできました。
唐突な指示に、キルシュは戸惑いました。
『どうしてですか?』
『良いから、言う通りにしてくれ』
ヴァイハの真剣な声色からして、何か行動するというのが伝わってきました。
キルシュは言われた通り目を瞑ると、フィオーレとカラズの悲鳴が聞こえました。キルシュの体に腕を回される感覚がして、次の瞬間には物凄い速さで前に進んでいるのが理解できました。
キルシュはゆっくりと目を開くと、ヴァイハに抱えられていました。キルシュは頬を赤らめました。
年上の異性に体を触れられるのは気恥ずかしいからです。
「せ……先輩!」
キルシュはヴァイハの名前を呼ぶことを忘れて慌てました。
「ああ、すまないな」
ヴァイハはキルシュに謝罪し、キルシュを解放しました。
「何があったか説明してもらえますか?」
キルシュは訊ねました。
ヴァイハが突拍子のない行動をとらないのを知ってはいますが、気になったからです。
「微弱ではあるが、大勢の黒天使が俺達に向かっているのを感じた。あの二人が呼んだとは考えにくいが、このままだと危険だと判断したから、目眩ましの呪文を使って逃げた。そんな所だ」
ヴァイハは言いました。
ヴァイハは経験を重ねたため、特に意識をしなくても、遠くにいる黒天使の気配を感じることができます。
キルシュは意識を集中し、黒天使の気配を探りました。すると背後から複数の黒天使の気配を感じました。キルシュとヴァイハを追ってきているようです。
「すみません、私が余計な時間をかけたばかりに……」
「謝る必要はない、黒天使のことだからどちらにせよ押し寄せてくることには違いなかったからな」
ヴァイハは言いました。キルシュのこと責めてはいない様子です。

「ヴァイハ先輩」
少しの間の沈黙に耐えかね、キルシュは口を開きました。
このまま真っ直ぐ行けば、イシスのいる神殿に到着するので、ヴァイハに聞きたいことがあったためです。
「何だ」
「ヴァイハ先輩は黒天使を消すことに今でも賛成していますか?」
キルシュは聞きました。ヴァイハは黒天使の消滅を肯定することを口走っていたからです。
キルシュは知っていました。ヴァイハは一度だけですが、黒天使に命を助けられたことがあることを。
とはいえ、ヴァイハの性格を考えると、簡単に自分の言ったことを覆すとはキルシュも思っていませんでした。
ヴァイハは静かに語り始めました。
「神の意志でそう決めたなら仕方がないが、俺自身の考えでは君と同じく反対だ。
……奴らのしていることで、人間や俺達天使にも被害を被ってはいるが、元々黒天使があんな風になったのも、神の都合で黒天使の主食を変えられたことが原因なんだ」
初めて知る事実に、キルシュは驚きが隠せませんでした。
「キルシュ、黒天使が誕生した経緯は知ってるよな」
「はい、確か黒天使のリーダーであるアドラメレクが天界の法を犯して、天界から追放されて、罪を背負う意味で白い羽根は黒く染まった。
それからアドラメレクは自らの力を使い黒天使を産み出した。神様もアドラメレクのその行動は止めなかったんですよね、アドラメレクの孤独をくみ取って」
キルシュは言いました。ヴァイハは「そうだ」と短く返しました。
アドラメレクの罪は最愛な人を守るために同族を殺したことです。それを知った時キルシュはアドラメレクも悪いですが、守りたいという気持ちは理解できなくもないとも思いました。
「黒天使が負の感情を食べるのも、アドラメレクが犯した罪を思い知るためという意味があるんだ。神の都合で黒天使の主食を変えられたことも含めて、黒天使を産み出したアドラメレクでも神の行いを阻止できなかった。学校の授業でやらなかったからあまり知られて無いかもな、ちなみにこの話は先輩から聞いた話だ」
「考えてみると、今回の任務も神の都合で行うことですよね、こう言っては難ですが神は勝手だと思います」
キルシュの声色には怒りが含まれていました。
アドラメレクの件を別にして、神の都合により黒天使の主食が変化したことで、天使や人間に実害が出て、対策を練っても黒天使の行動が改善せず、都合が悪くなったので黒天使を消す。
根本的に神が原因だと感じたのと共に、黒天使が気の毒に思えました。
フィオーレやカラズも神の都合によって消えるかもしれないと考えるだけでキルシュの胸がちくりと痛みました。
「……キルシュ、今俺が話したことは誰にも言うなよ」
「分かりました」
キルシュは言いました。
ヴァイハが話したことが神にとって不都合なら、キルシュも罰せられる可能性があるからです。
「それと、君には酷かもしれないが、イシス様の神殿に行くのは変わりないからな」
「ええ……」
キルシュは消え入りそうな声で言いました。滅びの書を渡す渡さないにしても、イシスのいる神殿には行かないとならないからです。

黒天使が必死なのだというのを、イシスのいる神殿前に群がっている黒天使を見てキルシュは思いました。
黒天使はイシスのいる神殿に入ろうとしますが、結界が張られているためか、入ることができません。その結界を破ろうと別の黒天使が呪文をかけますが、破ることも叶わないようです。
キルシュとヴァイハは雲に隠れており、黒天使は気付く様子はありません。
『……凄い黒天使の数ですね』
『そうだな』
二人はテレパシーで会話を交わしました。黒天使の群れを突破するのは危険過ぎます。
背後からの黒天使の気配が迫ってきています。
その時でした。
『貴方達が、滅びの書を持ってきた天使かしら』
キルシュの脳内に、女性の声が響き渡りました。テレパシーです。
ヴァイハにも聞こえたらしく少し驚いた顔をしていました。
『そうです』
『なら私のいる神殿内に案内するわ』
キルシュが答えると、二人の天使の体は黄色い光に包まれました。
次の瞬間、キルシュとヴァイハは鉛の雲のある空から、白い石造りの建物の中に移動していました。
二人の目の前には帽子を頭につけ、銀髪にウェーブに、水色の瞳の女性が現れました。顔は美しく、一度見たら忘れられないでしょう。
「貴方は……」
「私の名はイシス、呪文の神、ミサエルから話は聞いています。二人とも良く来ましたね」
イシスはキルシュとヴァイハに笑いかけました。
二人は身を屈めました。イシスは神様だからです。
「は……初めましてイシス様、私はキルシュと申します」
キルシュは自分の名を名乗りました。
「俺はヴァイハと言います。任務のために参りました。黒天使から助けて頂き有難うございます」
ヴァイハも名を名乗りました。
黒天使のいる空から、神殿内に迎えてくれたのですから、助けたというのも一理あります。
「いえ、貴方達が無事で何よりです。それより……」
イシスは手を伸ばしました。
「滅びの書を私に」
イシスの言葉に、横にいたヴァイハは「キルシュ」とキルシュの名を呼びました。
キルシュは滅びの書が入っている鞄に手を当てました。滅びの書をイシスに渡せばキルシュ達の任務は終わります。加えてイシス呪文を唱えてもらえば黒天使は消滅します。
そうすれば天使や人間にとって平和が訪れるでしょう。
キルシュは鞄から滅びの書を出すのを躊躇いました。キルシュが出さない様子に、しびれを切らしたイシスが声をかけました。
「どうしたのですか」
イシスの声は少し怒りが含まれていました。結界が張ってあるとはいえ、黒天使が神殿の外にいるのですから気が気ではないでしょう。
「……ごめんなさい、滅びの書は渡せません」
キルシュは重々しく答えました。

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