キルシュとヴァイハは鉛の雲が群がる空を飛んでいました。イシスのいる神殿に向かうためです。
「……無理に引き受けなくても良かったんだぞ」
隣にいるヴァイハはキルシュに言いました。
黒天使を全て敵だと思えないキルシュにとって今回の任務は酷だとヴァイハは感じたのです。
「お気持ち感謝します。でもミサエル様が私とヴァイハ先輩だから任せられると判断したのですから断るなんてできませんよ」
キルシュは精一杯明るく言いました。
滅びの書はキルシュの右肩の肩掛け鞄の中に入っています。これはヴァイハが任せたためです。
万が一黒天使と戦闘になった時、キルシュだけでもイシスの元にたどり着けるようにするための策です。
「急ぎましょう、黒天使が勘づいて来ないとも限りませんから」
キルシュは言いました。
黒天使は天使に関する情報を掴むのが早いので、キルシュ達の任務のことも知られている可能性があるからです。
「そうだな……」
ヴァイハは歯切れ悪く言いました。キルシュのことが気がかりだからです。

鉛の雲の風景が続く中、ヴァイハが突如声を出しました。
「止まれ」
「えっ」
ヴァイハの指示に、キルシュは羽根を動かすのを止めました。
「どうしたんですか?」
「ここ一帯に黒天使が仕掛けた罠が張ってある。通れば君や俺は炎の餌食になる」
ヴァイハは言いました。ヴァイハは黒天使の罠を見破る能力に長けています。
キルシュが見る限りは、単に雲が広がっているように見えますが、ヴァイハが言うのですから罠があるのでしょう。
ヴァイハは右手を掲げ、白い羽根を広げました。
「邪悪な罠から解放され、この道を開け!」
ヴァイハの口から呪文が紡がれ、手と羽根から黄色い光が出ました。
黄色い光は群れとなって雲の中に向かっていきました。すると光に反応する形で、複数の緑の光が弾けました。緑の光は黒天使が呪文を使った痕跡です。
「……余程ここを通したく無いんだな」
ヴァイハは右手を下ろしてから言いました。鉛の雲に覆われたこの空がイシスの神殿にたどり着く近道です。他からも行けないことはありませんが、時間がかかる上に、黒天使との遭遇率が高まります。
その時でした。背後から一つの黒天使の気配を感じました。
「ああ、そうさ、オレらだって死にたくねぇからな」
キルシュは振り向くと、昨日森で会ったカラズがヴァイハの真後ろにいました。
「ヴァイハ先輩!」
キルシュが叫ぶより先に、ヴァイハが素早く動き、カラズの蹴りを右手て受け止めました。
「また会ったな、片眼鏡」
「俺としては会いたくなかったがな」
二人の視線はぶつかり合いました。話からして二人は因縁があるようです。
ヴァイハはそれからもカラズが繰り出す体術をかわしつつ、水の玉を放ちました。カラズは追跡する水の玉を旋回してから、急に動きを止めて、水の玉を蹴飛ばしました。
『キルシュ、俺があいつを何とかする。君は先に行くんだ』
ヴァイハはキルシュに背を見せたままテレパシーを飛ばしました。
『ごめんなさい行けません、昨日ヴァイハ先輩にお話しした森で出会った天使の一人が、今目の前にいるんです』
『カラズなのか?』
『それと、もう一人いました』
キルシュがその先の話をすることはできませんでした。高速で雷が飛んできて避けざる得なかったためです。
もう一つの黒天使の気配がする方向にキルシュは顔を向けました。フィオーレが両手をこちらに伸ばし、何とも言えない表情でキルシュを見ていました。
雷を放ったのもフィオーレです。
「フィオーレ……」
「ごめんなさい、いきなり攻撃したりして」
フィオーレは両手を下ろして謝りました。
ヴァイハと戦っていたカラズは動きを止め、フィオーレの方を見ました。
「バカかオマエ! 何で敵に謝ってんだよ! 殺す気で攻撃しろ!」
「で……できませんよぉ、そんな物騒なこと」
フィオーレは自信無さげに言いました。
「ったく……」
カラズはあきれ声を発し、フィオーレの隣に飛んでいくなり、フィオーレに言いました。
「しっかりやれ! オマエだって死にたくねぇだろ!」
「そうですけどぉ……」
カラズの殺気立った様子に、フィオーレは怯えていました。
昨日のことと言い、フィオーレは見るからに戦いには向かない黒天使のようです。
「その弱々しいのはお前の相方か、戦場では早死にするタイプだな」
ヴァイハが鋭い声で言いました。カラズは怒りに満ちた顔でこちらを見ました。
「ああ、そうだよ、こいつがしつこくついていくって言うから仕方なく連れてきたんだ」
「フィオーレと言いますぅ、青髪の天使さん、あなたとは初めましてですよねぇ」
フィオーレは礼儀正しくヴァイハに挨拶をしました。黒天使では珍しいタイプです。
カラズは「はぁ……」と呆れ混じりにため息をつきました。フィオーレの好きにさせようと思ったようです。
「桃髪の天使さんは昨日お会いしましたねぇ」
次にフィオーレはキルシュの方を見ました。
「そうね」
「名前は何て言うんですかぁ?」
フィオーレが聞きました。またキルシュと会ったのでキルシュに興味が沸いたのかもしれません。
答えて良いか少し迷いましたが、フィオーレも自分の名を名乗っているので答えようと思いました。
「キルシュよ、青髪の天使はヴァイハって言うの」
「キルシュさんにヴァイハさんですかぁ、素敵な名前ですねぇ」
フィオーレは満足げな顔をしていました。
『あの黒天使の女が君の言ってたフィオーレか』
ヴァイハはテレパシーで柔らかくキルシュに訊ねました。カラズと接している時とは対照的です。
『ええ、そうです。あとごめんなさい、勝手にヴァイハ先輩の名前教えたりして』
『気にするな、俺は多くの黒天使に顔を知られているからな、一人知られたくらいで支障はない』
ヴァイハの口振りからして、本当に気にしてないようでした。
『フィオーレは黒天使ですけど悪そうに見えませんよね。カラズは違いますけど』
『油断するなよ、君へ雷を放ったのは事実だからな』
『分かってます』
キルシュとヴァイハのテレパシーはここで終わりました。

「とにかくオマエらは通さねぇ、オマエらの目的は知ってるからな」
カラズは落ち着いた態度で口走りました。
「お前らしくない小賢しい罠を仕掛けるくらいだから必死なんだな」
「当たり前だ。フザけた呪文を唱えさせてたまるかよ」
カラズはヴァイハに言い返しました。
「お願ですからやめて下さい。私達だって生きてるんですぅ」
フィオーレは必死な顔で訴えかけてきました。
いくら敵の黒天使といえど、そんな顔をされるとキルシュの良心が痛みます。
「俺としてはお前達の鬱陶しい黒い羽根を見なくて済むならその方が世界のためだと思うがな」
ヴァイハは忌々しげに言いました。彼の言葉にフィオーレは悲しげな顔になりました。
ヴァイハの考えは理解できなくもありません、普通の天使なら黒天使のいない世界を望むでしょう。
しかしキルシュは違います。
『ヴァイハ先輩』
キルシュはヴァイハにテレパシーを飛ばしました。
『どうした』
『少しで良いんです。二人と話をさせて下さい、お願いします』
キルシュは真剣に言いました。
『君にも分かってるよな、俺達には時間が無いんだぞ』
ヴァイハは言いました。今は黒天使が二人だけですが、増援が来ないとも限らないからです。
『承知の上です。時間はそんなに取らせません』
キルシュの気持ちは揺るぎませんでした。二人と話がしたいからです。
『あまり長くするなよ』
『有難うございます』
キルシュはヴァイハに礼を言いました。
そしてキルシュは深呼吸して、カラズに視線を向けました。
「カラズ、貴方に聞きたいことがあるの」
「何だよ」
カラズは不機嫌そうに言いました。ヴァイハの言動に腹が立っているのでしょう。
「貴方を含む黒天使は何故人を襲ったりするの?」
キルシュは問いかけました。
襲う理由は小さい頃に天使から教えてもらいましたが、目の前にいる黒天使から聞きたいのです。
「余程のバカじゃねぇなら、オマエだって知ってるだろ」
「分かってはいるけど、今は直接貴方に聞きたい」
カラズは頭をかき「ったく」と面倒くさそうに言いました。
「オレら黒天使が人を襲うのは人間の恐怖や不安といった感情を食糧とするためだ。オマエら天使が肉や魚を食わねぇと死んじまうのと同じだ」
カラズの言っていることは、教わったことと一致してました。
黒天使の主食は人間の負の感情です。黒天使が人を襲って恐怖や不安を与えるのは、黒天使が生きるためでもあります。
天使を襲っても黒天使の食糧となる負の感情は出ますが、人間より少ないらしいです。
「何とも悪趣味だな」
「うるせぇ!」
ヴァイハの静かな言いぐさに、カラズは威勢よく言い返しました。
「私達だって好きでそんな風になった訳じゃないんですよぉ、できるなら天使の皆さんのようにお肉や野菜を食べたいですぅ」
フィオーレは少し悲しげな声になりました。黒天使は肉、魚、野菜が全く食べられず、負の感情しか受け付けない体質なのです。
黒天使が人を襲い、建物を壊したり、農作物を滅茶苦茶にするのは決して誉められることではありませんが、生きるためにやむ無くやっていることです。
神様も黒天使のそれらの行動を変えようとあらゆる手は尽くしましたが変えられなかったのです。
「んで、オマエはそんな下らねぇ事を聞いてどうするんだ」
「黒天使の行動理念の再確認のためよ」
「コウドウリネン? なんだそりゃ」
「行動の方針よ、聞かせてくれて感謝するわ」
キルシュはカラズに礼を述べました。するとカラズは「ぷっ」と吹きました。
「オマエ面白ぇな、そこにいる片眼鏡野郎とは違うみてぇだな」
カラズは愉快に言いました。
カラズの意見をキルシュは否定できませんでした。黒天使と面と向かって話す天使というのもあまりいないからです。
「……私のお祖父様が黒天使に助けられたことがあったの、それを聞いて黒天使が完全に悪だとは思えなくなったの」
キルシュはフィオーレに視線を向き直しました。
「フィオーレは人間の少年を助けようとしたしね」
「キルシュさん……」
フィオーレは嬉しそうに笑いました。
キルシュはフィオーレを見て思いました。命令とはいえ、イシスに滅びの書を渡すのはやめた方が良いのかもしれない。
単に黒天使が悪いと決めつけず、黒天使に取り巻く問題を解決しないといけないと。

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