「何を言っているの、貴方も見たでしょう、私の神殿外にいる黒天使の群れを」
イシスに言われ、キルシュは無礼を承知で立ち上がりました。
イシスと対等に話をするためです。
「確かに見ました。しかし滅びの書は渡せないと言ったのです。黒天使を消すのは反対です」
キルシュの言葉に、隣にいたヴァイハも流石に口を挟まずにはいられません。
「キルシュ、それはいくら何でも……」
「すみません先輩、少し黙ってて下さい」
キルシュは心からヴァイハに申し訳ないと思いつつ、深呼吸をして話を続けます。
「黒天使は人間を襲う厄介な存在です。それで日常茶飯事のように天使が黒天使と戦う、その点については否定するつもりはありません、今回の黒天使を滅ぼす作戦を神様が考えるのも無理はないでしょう。
でも、黒天使が完全に悪いと決めつけるのは間違っていると思います」
キルシュの澄んだ声は、神殿内に響きます。
「黒天使が人間を襲うのも、彼等の食糧事情が関係しているからです。根本的な改善もしないでこちら側の都合で消滅させるのは酷だと思います」
キルシュは言葉を一旦止めました。脳内には先日黒天使のフィオーレが人間の少年と手を繋いでいる光景が甦りました。
同時にキルシュの祖父の話もです。
「それと、黒天使の中にも人間に優しい者もいます。黒天使の皆が皆人間を襲う訳では無いのです。私のお祖父様も元に黒天使に命を救われています。それらを含めてお願いします」
キルシュはイシスに頭を下げました。
「黒天使の消滅を考え直して下さい」
キルシュははっきりと言い切りました。
言いたいことを全て口に出し、胸の内はすっきりしましたが、不安でもありました。自分の想いが果たしてイシスに伝わったのかと。
滅びの書を渡さなかったことで厳しい罰を受けることもキルシュは覚悟していました。
しばしの沈黙の後、キルシュに話しかけたのはイシスでした。
「顔を上げて」
イシスの言葉にキルシュは用心したように顔を上に動かしました。イシスは複雑な表情をしていました。
「話は理解したわ、貴方が黒天使を消したくないというのもね」
キルシュは口を閉ざして、イシスの話に耳を傾けました。
「貴方が言うように黒天使の中にも良心がいるのかもしれないわね、貴方の祖父以外にも黒天使に救われた天使はいるのかしら」
「私が知る限りは数人います」
キルシュは言いました。
上の天使の命令で、公にはなってはいませんが、黒天使に助けられた天使は少なからずいます。
実はこの場にいるヴァイハも一度だけですが、黒天使に助けられたことがあるのです。
しかしヴァイハにとってプライドを傷つけることなので、彼の名は出せません。
「……分かったわ、黒天使消滅を取り下げる件は、私がテミスに直接会って話してみるわ」
少し考えてから、イシスは言いました。
テミスとは神様の中で最も偉い立場で、今回の作戦を考えた神様です。
イシスは神様とは折り合いの悪く、会うというのも勇気がいるでしょう、そこまでしてくれる事に、キルシュは嬉しくなりました。
「元を正せば、黒天使が人を襲うようになった原因は私達神にもある訳だしね、黒天使ばかりを悪だと思うのはいけないよね……正直言って、ミサエルから今回の作戦を聞かされて良いとは思えなかったの、でも貴方の言葉を聞いてはっきりとやめようと思えたわ」
イシスは自分の気持ちを口に出しました。
確かにミサエルもイシスは仕方なく承諾したとは言っていました。
「キルシュ、持ってきた滅びの書を出して」
「あ、はい」
キルシュは鞄から滅びの書を取り出し、イシスに見せました。
イシスは滅びの書を見つめると、人差し指を動かしました。滅びの書はキルシュの手からゆっくりと離れ、空中で燃えました。
「これで悪用されることは無いわ」
イシスは言いました。
「……良かったんですか?」
キルシュは訊ねました。神様が長年苦労して作った書物をイシスが呆気なく灰にしたからです。
「滅ぼすとかはあまり好きじゃないからね、貴方にさっきはきつく言ったけど、黒天使と和解できる道を探りたいわね」
イシスが言いたいのは、キルシュに黒天使が神殿外にいると言い放ったことでしょう。
「神殿の外の黒天使はミサエルに連絡して何とかするわ」
「あの、イシス様!」
今まで黙っていたヴァイハが腰を上げて口を開きました。
キルシュが立ってるなら問題ないと感じたのでしょう。
「彼女の無礼については謝罪しますし、今回の件で罰が下るようなら受けます」
ヴァイハは申し訳なさそうに言いました。滅びの書をイシスに渡すどころか、キルシュの説得で、イシス自身が燃やしてしまうという事態になったのです。
任務を果たせなかったと判断されても、仕方ないと思います。
「貴方達の処遇は悪いようにしないわ、これもミサエルに頼んでみる」
「……すみません」
「謝る必要は無いわ、貴方の後輩の勇気が天使と黒天使の在り方を変えるかもしれないから」
イシスは威厳と落ち着きを含んだ声で話しました。
「後のことは私に任せて、貴方達は天界に帰りなさい、心配しなくても、天界に直通する道は作るから」
そう言って、イシスは再び人差し指を動かしました。すると二人の真横に扉が現れました。
神殿外には黒天使が大勢いるので、帰り道があるのは助かります。
「あ、あの、色々と有難うございます」
キルシュは感謝を込めてイシスにまた頭を下げました。
「気を付けてね」
「お世話になりました。イシス様の交渉が上手くいくことを願っています」
ヴァイハは言いました。
二人はイシスに背を向け、扉を潜りました。そこは二人にとって見慣れた天界でした。

二人はそのまま城にいるミサエルの元に向かいました。ミサエルはイシスから話は聞いており、滅びの書の件はイシスが自ら燃やしたこともあり、キルシュがお咎めを受けることはありませんでした。
しかし、黒天使の消滅を願っていた天使からキルシュは冷ややかな目で見られ、陰口も叩かれました。事が上手くいかなかったらキルシュのせいだ。とか黒天使がいなければ楽だったのに、などです。キルシュは天使からの悪意ある言動にも動じませんでした。加えてヴァイハの支えもあってのことです。
ヴァイハはキルシュに言いました。
「気にすることはない、好きなだけ言わせておけばいい、イシス様が上手くやってくれることを願おう」
「そうですね」
キルシュは明るく語りました。
イシスがテミスとの交渉から一ヶ月後のことでした。テミスは黒天使のリーダーであるアドラメレクと対談し、アドラメレクに黒天使の主食の改善の意を伝え、アドラメレクもそれを了承し、テミスは自らの力を持って黒天使の主食の変更を行いました。
それに伴い黒天使の主食は人間の負の感情ではなくなり、肉や野菜を食べるようになったそうです。加えて今後は黒天使が人間に危害を加えない規約をテミスとアドラメレクは交わしました。
テミスは天界にいる全ての天使、地上にいる全ての人間に宣言しました。黒天使は今後人間を襲うことは無いと。
それを聞き喜ぶ者もいれば、疑う者もいたり、何故もっと早くやらなかったのか声を上げる者もいたりと反応は様々でした。
キルシュはテミスの宣言を聞き、黒天使が消滅せずに済んで良かったと心から思い、ヴァイハは後輩の行動を誇りに思いました。
テミスの言葉が真実だと知るのは、更に時間が経ってのことでした。村や町を襲っていた黒天使は人間の前から姿を見せなくなり、人間にとって心休まる時が来ました。
天使は黒天使が人間を襲わなくなって仕事が無くなったかというとそうでもありません。怪我や病気で苦しむ人間を癒したり、困っている人間を助けています。

キルシュは腰痛のおじいさんを癒しの呪文で治し、次の村に向かっている所でした。
『調子はどうだ?』
テレパシーでヴァイハが話しかけてきました。
『問題無いですよ、ヴァイハ先輩こそどうですか』
『悪くはないが、やや退屈な気がするな』
ヴァイハは言いました。
黒天使の襲撃が無くなってから楽だという反面、ヴァイハのように毎日黒天使との戦闘を行ってきた天使にはいささか刺激が足りないと言い出す欲張りな天使もいます。
キルシュはその点については否定しませんが、人間の役に立つ治癒の方がキルシュはやりがいのある仕事だと感じています。
『黒天使の中にはテミス様の宣言を破る者もいますから、そっちの処理をした方が良いのではないですか?』
キルシュは言いました。
テミスは黒天使は人を襲わないと宣言はしましたが、全く襲わなくなったかというと、そうではありませんでした。
中には刺激が欲しくて人を襲う不届きな黒天使も少数ですがいるもので、黒天使との戦いが完全に無くなることはありません。誰にでもある欲望はいくら神様でも制御はできないのです。
『そうだな、考えておくよ……それより』
ヴァイハは話を切りました。
『昇格おめでとう、俺の後輩として嬉しく思うよ』
ヴァイハのお祝いの言葉に、キルシュは胸が熱くなりました。
キルシュは今回の件で、黒天使との在り方を変えた功績者として天使から能天使へと二段階格が上がりました。
天使は三年に一度、才能と功績に応じて段階上がる仕組みになっています。
キルシュにとって今回が初めての昇格だったのですが、功績もあり二段階の昇格が認められました。昇格する事で今までより責任のある仕事を任せてもらえたり、呪文を使用するための力が上がったりします。
『有難うございます。でもまだ先輩には及びませんよ』
キルシュは言いました。ヴァイハの格は力天使です。
ヴァイハの昇格は来年ですが、今より上がる可能性があります。
『俺とキルシュは違う天使だ。キルシュは自分にできることをすればいい』
ヴァイハが伝えたいことは理解できました。人と比べず自分らしくするように。ということです。
『心に留めておきます』
『それでいい、俺はそろそろ仕事に入るから気を付けてな』
『ヴァイハ先輩もです』
ヴァイハとのテレパシーが終わってから間もなくのことでした。三つの気配がして、キルシュは羽ばたくのをやめました。
キルシュの目の前に、二人の黒天使が現れたからです。
「久し振りだな、桃髪天使」
「キルシュさんですよぉ、あ、お久しぶりですぅ」
黒天使はカラズとフィオーレでした。

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