二人は並んで廊下を歩いていた。
 後姿は二人揃って同じ髪形で、 振り向かれても簡単には見分けがつかない。
 ハンスは扉の前に立ち、スピカも少し遅れて足を止める。
 「ここだよ」
 「駄目よ、ここってお父さんが入っちゃいけないって言ってたじゃない」
 スピカはハンスの服を掴み、注意した。
 二人の前にある部屋には様々な物が保管しており、中には剣や毒薬など危険な物があるため、子供である二人が入ることを固く禁じている。
 「ばれなきゃいいんだよ、一度でいいから入ってみたかったんだ」
 ハンスはポケットから鍵を取り出す。
 人目を盗み、こっそり持ち出してきたのだろう。
 しかし、スピカはハンスの腕をしっかり握り締め、首を横に振る。
 「いけないわ、こんな所を人に見られたら怒られるわ」
 スピカは表情を曇らせて、訴えた。
 禁じられた場所に入り、厳しい罰を受けるのが不安だった。
 昼間の時間は、召使いが掃除をする頃だ。ここをいつ通ってもおかしくない。
 「なら僕だけで入るよ、姉ちゃんは自室に戻ってなよ」
 ハンスは鍵穴に鍵を差し込み、扉を開く。
 ハンスは心配性なスピカと違い、好奇心が旺盛で、例え叱られると分かっていても自分の欲望を満たさないと気がすまないのだ。
 「わたしも行くわ、あなた一人じゃ心配だから」
 覚悟を決め、スピカは一緒について行くことにした。ハンスの事が心配だからである。
 スピカはハンスと共に、扉の中を潜った。
 この後、惨劇があるとも知らずに……

 僕はずっと後悔してたんだよ、忠告を無視して部屋に入ったことを。
 邪悪な魔物が眠っているとも知らずに、箱を開けてしまったことも……
 最も辛かったのは姉ちゃんを巻き込んだ事、あの時は胸を掻き毟られる思いだった。
 姉ちゃんは僕に普通に接してくれたけど、僕の心には罪悪感が残った。過去を忘れるために僕は多忙に身を埋めたんだ。
 そうすることによって、過去に僕が犯した罪も和らいだ。
 だけど、僕は大切なものを失った。人として当たり前な部分を。
 結果として、姉ちゃんを悲しませることになってしまった。

 「姉さん」
 スピカの耳に、穏やかな声が聞こえた。
 スピカは目の前を見たが、ハンスは下を向いたままだ。周りには人はいない。
 仲間二人は気絶したままで起きる気配が無い、二人には悪いがその方が都合よい。
 「ハンス……ハンスなの……?」
 スピカが問いかけると、そうだよ、と弱々しい返答が返ってきた。
 「僕は今姉さんの心に直接話しかけているんだ。デモートの力を利用させてもらったんだよ」
 「……あなた本当にハンスなのよね?」
 スピカは不信感を胸に抱き、質問をした。
 ハンスを信じない訳では無いが、彼の行動を考えると、安心したとみせかけて突然変貌しないとも限らない。
 「姉さんが信じてくれないのも無理ないよね、邪悪な力に支配された僕は姉さんを散々苦しめてきたんだから、それは悪いと思ってる。ごめんね」
 悲しさを含んだ声で、ハンスは話した。
 「僕は邪悪な力によって、闇の奥深くに追いやられていたんだ。それだけ僕の劣等感は強かったんだ。こうして姉さんと話しているのは、邪悪な力に支配された僕が弱まったからだよ、全ては姉さんが僕に訴えかけてくれたお陰だよ」
 その言葉に、スピカは胸が熱くなった。努力が決して無駄ではなかったからだ。
 ハンスは血の通った人間で、殺人鬼ではない。例え道を外してもそうなった理由がある。
 「……わたし、ずっと後悔してた。あなたを守りきれなかった事を」
 スピカは胸に手を当てた。
 最初は疑ったがこうして話してみると、昔のハンスそのものである。
 塔で再会した腹黒いハンスとは違う。
 「姉さんは悪くないよ、僕がいけないんだ。約束を破ったあまりに姉さんを巻き込んでしまった。これだけは変わりないよ」
 双子は過去のことを長い間後悔していた。
 スピカはハンスを守れなかったことを、ハンスはスピカを茨の道に導いた事を……お互いの「罪」をずっと。
 ハンスは真剣な口調で言った。
 「姉さんにお願いがあるんだ」
 「何? どうしたのよ」
 スピカは優しく訊ねる。
 「お願い……僕を……殺して」
 聞いた瞬間、スピカの頭の中は真っ白になり、ハンスの言葉を受け止め切れなかった。
 足元がぐらつき、スピカは頭に手を当てる。
 「どういう意味よ、悪い冗談はよして……」
 スピカは動揺する自分を抑え、ハンスに言った。
 「そのまんまの意味だよ、僕を殺して欲しい、これ以上姉さんを苦しめたくないんだ。こうして姉さんと話してはいるけど、長くは持たないよ」
 スピカは言葉を失った。
 聞いているだけで心を抉られる思いだった。とんでもない大悪党はともかく、この世に一緒に産まれた弟の命を奪うなど、間違いであっても出来るはずが無い。
 「どうしてそんな事を言うの?」
 スピカは苦痛の表情を浮かべる。
 「嫌なんだよ……姉さんを傷付けることが……関係の無い人を殺すのが……血の臭いが体に染み付くんだ。夢にまで出て来るんだ僕が手にかけた人たちの叫びが……耐えられないんだよ……ずっとずっと逃げていたけど……もう限界なんだ……」
 ハンスは淀みなく思いを伝える。
 幾度となく罪を犯し、表面では誤魔化してはいたが、人の命を奪った重みは逃れられるものではないのだ。
 スピカにも同じ経験があるので、ハンスの気持ちが痛いほどに分かった。
 「だから……僕を殺して欲しい……お願い……」
 「……嫌よ」
 目を真っ赤にし、スピカは首を横に振る。
 どんな理由をつけても、ハンスの人生を終わらせるなど、残酷過ぎる願いだった。
 「何であなたを殺さなきゃいけないの……? そんなのできる訳無いじゃない……あなたを殺す位なら死んだ方がマシだわ!」
 「姉さん……」
 「できないよ! どんなに大金を積まれても! 待遇の良いギルドに誘われても! 脅されたって! 絶対に!」
 スピカは瞳を固く閉じて、その場に座り込む。
 頬は涙に濡れていた。ハンスを失う苦痛に耐えられなくなったからだ。
 「僕も分かってるよ……姉さんには酷すぎる願いを言っていることを」
 「分かってない! あなたは自分の命を軽く考えているでしょ!? 人の命はお金を積んでも永久に買えないのよ! 殺すとか簡単に言わないで!」
 スピカは叫ぶ。子供っぽいと分かっていても。
 かつての親友サヤに会いたくても二度と会えない、どれだけ世界中を巡っても。
 そっくりな人間がいても、それはサヤではない。
 命が消えるのは、相手の存在が世界から永遠になくなるのだ。
 突然、肩に激痛が走り、スピカは肩を押さえて倒れた。デモートがスピカの後ろに立っており、彼の手には血の付いた剣が握られている。
 「敵に隙を見せるとは愚かな女だな、お前は簡単には殺さない、少しずついたぶってやろう」
 負傷した肩をかばいつつ、スピカはデモートの攻撃を回避した。
 悪魔に体を乗っ取られてはいるが、ハンスはハンスでしかない。たった一人の家族を手にかける苦痛は、体よりも心が痛い。
 気丈には保ってはいるが、いつ崩れてもおかしくはない。
 「もうすぐ僕は邪悪な心によって埋め尽くされる、そうなれば姉さんだけでなく、姉さんの仲間や他の人たちも殺してしまう……本当の意味で死ぬより辛い思いをするんだよ? 僕一人が死ねば姉さんはデモートの呪いから解放されて、世界は救われるんだ」
 「死ぬなんて言わないで……あなたが助かる道はあるはずだわ……」
 「都合がいいことは転がって無いよ、現実は冷たいんだ」
 ハンスの声はさっきよりも小さくなっていた。残された時間は少ない。
 もしも唐突に神様が現れ、ハンスを助けてくれたら……エレンがデモートを退治する薬を投げつけてくれたら……次々と都合のいい展開がスピカの脳裏に掠める。
 しかし、それはスピカが考えた空想に過ぎず、事態は思うように好転しないものだ。
 スピカは手を地面に力一杯叩き付けた。皮膚が裂け、そこから血が流れる。
 己の無力さを呪った。なぜ血を分けた家族を救えないのか? 戦闘の経験や世の中を回るための処世術など全く役に立たない。
 「姉さんが僕に生きてもらいたいように、僕も姉さんには生きて欲しいんだ」
 ハンスは穏やかに話す。
 スピカの体は震えていた。彼女の中では葛藤が続いている。
 「僕はね、姉さんに幸せになってもらいたいんだ。過去のしがらみに捕らわれず、今よりもずっと暖かい未来を築くんだ。姉さんはここで死んではいけないんだよ……」
 ハンスは姉の行動を促す。 
 この時のハンスは、きっと柔らかな微笑みを浮かべていただろう。
 姉の幸せな未来を願って……
 スピカは声を聞いて、ハンスの顔を想像していた。
 「未来を精一杯生きて、それが大好きな姉さんに対する僕の願いだよ」
 言葉を伝えきると、ハンスの気配はスピカの中から跡形も無く消え去った。
 「ああああああああっ!」
 両目から涙を零し、スピカは叫び声を上げて、デモートへ疾駆する。
 デモートが剣を振るが、簡単にかわし、迷わず相手の急所に短剣を突き刺す。
 鮮血が胸から噴出し、スピカの体にかかり、服の色は朱に変化する。
 相手は呻き声を発し、苦しんでいるのが分かる。
 ……早く……終わって……
 スピカは目を固く閉じて願った。ハンスの苦しむ顔を見たくないのだ。
 スピカがハンスを倒そうと決意したのは、優しい頃に戻ったハンスの言葉を無駄にしないためだ。他にハンスを救う方法があるならば、何でもしたかった。
 しかし時間が無い今は、ハンスの言葉通り彼を倒すしかない……短絡的で、悲しい選択だった。
 頭の中には、ハンスと過ごした日々が蘇っていた。幼かった頃は一緒に笑い転げていた。昼寝をした時にハンスが側にいると落ち着いた。
 いつもハンスが一緒だった。彼がいない生活は考えられなかった。
 その生活を皮肉にもスピカが断ち切ろうとしている。
 たったの数秒が長く感じられた。それはスピカにとって激しい苦痛を作り上げる。
 ……ありがとう、姉さん。
 ハンスの声が再び聞こえた。彼なりにスピカの行いを労いたかったのだろう。
 その直後だった。相手の力が抜け、スピカにもたれかかってきた。
 剣を捨て、スピカはハンスの体をしっかり抱える。ハンスは目を見開いたまま絶命していた。肌の温もりが伝わり、死んだとは思えない。
 「うっあ、ああああ……」
 スピカはハンスの亡骸を抱きしめて、嗚咽を上げる。
 いくら相手の望みだったとしても、たった一人の弟を死に導いたのは、かなり精神的な苦痛を伴うものだった。
 彼だってもっと幸せに生きたかっただろう、犯罪などに無縁でも慎ましい生活があるのだから。
 しかし、彼の命は終わりを迎え、普通の人間としての日々を送る事は叶わなかった。
 「ハンス……ごめんね……助けてあげられなくて……」
 スピカは涙声で謝罪した。ただ泣くしかなかった。
 悲しみの嵐は止みそうにない。
 少女の痛みは、ずっと心の奥に突き刺さっていた。一生忘れられない罪の十字架となって……

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