「まさか、オマエのような小娘が俺の魔物を眠らせるとはな……」
憎悪をむき出しにした声が、三人の鼓膜を叩く。
三人は同時に声がした方角を向くが、そこには姿が無い。
スピカは辺りを見るが、眠っている魔物と、高いフェンスだけである。
「俺はここだ」
低い声がして、スピカが気付くと、エレンの背後にアークが立っていた。
赤い双眸がギラギラと輝き、表情は恐ろしいほどに冷たい。
「エレン、後ろ!」
スピカが叫び、エレンが振り向くが、時は既に遅かった。
エレンはアークが放った目に見えない力で吹き飛ばされ、フェンスに全身を打ちつける。
地面に落ち、エレンはそのまま動かなくなり、彼女の眼鏡も遠くに飛ばされてしまった。
「てめっ、よくも!」
「オマエも邪魔だ」
アディスはアークに攻撃を仕掛けようとしたが、彼もエレンと同じ運命を辿ることになる。アークの目の前にして体が動かなくなり、左の方角へ吹き飛ばされた。
二人の仲間を突然失い、スピカは呆然とする。
残っているのはスピカと、敵のボスだけだ。
「心配するな、殺してはいない、俺は無益な殺生はしない主義だ」
アークは作り笑いを浮かべた。スピカは身構えた。いつでも攻撃できるように。
「俺はな、オマエとゆっくり話がしたかった。スピカ」
「図々しくわたしの名前を呼ばないで!」
スピカはアークを睨みつける。家族をバラバラに引き裂いた張本人なのだから。
「よくもわたしの両親を、ハンスを……仲間を! あなただけは絶対に許せない!」
目の前にいる元凶に、スピカは胸中の思いをぶつける。
何も変わらないが、言いたいことは言っておきたかった。
アークは馬鹿にするように声を低くして笑う。スピカはひどく不愉快な気分になったが、口には出さない。
「オマエは本当にハンスそっくりだな、奴も俺を責めた、両親を殺したことに対してな……その目つきとか奴そのものだ」
アークは早足でスピカに近づき、スピカは遠ざかるために後ろに下がる。
「ハンスは簡単に俺の元に引き込む事が出来た。強くなりたいという思いがあったからな、だがオマエは難しそうだな」
「わたしはあなたの元に行かないわ、行くくらいなら死んだ方がマシよ」
闇の集団は、犯罪に手を染める組織。
人に恐怖と苦痛を与える活動など、何が何でもお断りだ。
しかし、どうしても聞いておきたい事があり、スピカは疑問を投げかける。
「ハンスが言ってた”デモート”って何なの? あなた達闇の集団にとって必要なものなのかしら」
「何を聞くかと思えばそんな事か、デモートは俺の僕の中で最も弱い怪物だ。今はオマエ達双子の中に憑いているがな、体に害は無いだろ?」
「精神的には最悪だわ、取り除く事は出来ないの? あなたの僕なら知っているはずよね」
スピカはアークを問い詰めた。
デモートが原因なのだろう、些細な怒りによって激しい憎悪が膨れ、誰かを傷付けたい衝動に駆られることが度々ある。
箱を開けた自分達に責任はあるが、デモートを扱っていたアークなら、知っていると思った。
だが、現実は甘くは無かった。
「残念だがデモートは一度憑くと死ぬまでずっと消えない、話しかけることはあっても、オマエの体を乗っ取ることは無い。十一年前にオマエの家に忍び込んだのも、デモートをこの手で始末するつもりだったが、その必要も無くなったがな……オマエの両親も愚かだな、何も知らずに魔物が封印された箱を買うとはな」
微かな希望をあっさり打ち砕かれ、スピカは言葉が出ない。
覚悟していた、敵が都合の良い展開を用意していないと。
世の中は大抵、思い通りにはならないのだ。そうしなければ人間は成長しないし、困難にも立ち向かえない。
……期待したわたしが愚かだった。
アークはスピカの身近に迫る、彼女に残酷な言葉を突きつけるために。
「もしも魔物をオマエに提供するならば、オマエの精神を食いつぶすか、食い殺すかのどっちかだオマエを無事には済ませない」
スピカは眩暈がして、アークがぼやけて見えた。
期待が絶望へと変わる経験を過去にしたからだ。
頭の中には、昔通っていたギルドと女の姿が蘇る。
あの時と同じだ。無責任な対応に絶望し、その後激しい憎悪にかられ、何人もの命を奪った身勝手な自分。
……失望したか、お前は永久に俺の呪縛から逃れられない、存分に作り出そうではないか、紅に染まった舞台を。
憎悪と怒りがデモートの力によって心の奥底から溢れ出す。スピカの意志に反して。
短剣を抜いて、アークを八つ裂きにしたい、あの顔を二度と拝めないように滅茶苦茶にしてしまいたい。
スピカは歯を食いしばって、全身を駆け巡る衝動と戦った。
……誰がおまえの命令なんか聞くものか、あんな惨劇は二度とごめんだわ。
頭の中に聞こえる声を、スピカは拒絶する。
聞き入れたら取り返しがつかないからだ。デモートの声に耳を傾け何人もの命を奪った。
いや、そんなのは単なる言い訳でしかない。
デモートに負けたからこの手で人を殺した。自身がもっと強ければ惨劇は防げたのかもしれない。
……案ずるな、お前には少しの間眠っていてもらう、アークは俺の力を見くびってはいるようだがお前の意識を乗っ取ることなど容易い。
だまれ……
……心配するな、お前の弟には触れはしない。
……黙れと言っているのが分からないの? おまえの言うことなど信用できない、もしわたしの目の前でハンスに触れてみろ、元いた世界が楽園だったってことをその身をもって教えてやるわ!
スピカはデモートを威嚇した。
口では守るというが、いざ行動すると約束を破る事が敵には多い。
スピカは嫌ってほどに、敵側に回った人間の醜い部分を見てきた。それはデモートにも言えることである。
特にハンスに何かされたらたまらない、自分がデモートに乗っ取られ、傷つけるのだけは避けたかった。
……そうか、良く分かった。ならば俺の半身にお前の代わりをやらせよう、後悔するなよ。
デモートはスピカの中から跡形も無く消え去った。
気味が悪いほどに素直である。
頭を抱えていた手を下ろし、スピカは何度も瞬きをした。同時に憎悪からも解放されたのだ。
あまりに諦めの良いデモートに、スピカは胸騒ぎがした。
いつもと様子が違い、嫌な予感がする。
反抗したからだろうか? 引っかかるのは”俺の半身”という言葉だ。
「どうだ? デモートから解放された気分は、清々しいか?」
アークが声をかけてきた。いつまでも黙り込んでいるスピカの反応を確かめるために。
「最高だわ、どうもすっきりしないけどね……さっきあなたは言ったわよね?
デモートは一生憑くって、あっさりわたしの中から消えたんだけど」
スピカは矛盾を指摘した。アークは鼻で笑った。
「オマエは愚かだな、たった一人の弟の存在を忘れるとは、デモートはオマエの中から奴に移っただけだ。二つに分かれたんだからな、もう一つの体に戻る事も可能だ」
アークが言った直後に、一つの足音が響く。
階段から物が落ちるような軽い音だ。しかも着実に近づいてきている。
馬鹿だ。わたしは大馬鹿だ。スピカは自身の考えが浅い事を呪った。幼い頃にスピカと一緒にハンスにも闇が乗り移ったことを忘れていたからだ。
色々とあり過ぎて、記憶の片隅に押しやられていた。
ちょっと頭を捻れば、デモートが自分の半身を持つハンスが近くにいれば移動することなど簡単に推測できる。
闇は闇を呼ぶ、単純だけど侮ると恐ろしい。
スピカは足音がする方に目線を向けた。ハンスはおぼつかない足取りだった。
瞳は虚ろで、正気を感じさせず、表情は固い。
その姿は、過去の自分と同じだった。
サヤを失い、自暴自棄になったあの時と。
14 戻る 16