人気の無い狭い路地でアディスとエレンは会話を交わしていた。
スピカの見舞いの帰りだった。
「その話、本当なの?」
エレンは灰色の双眸を大きく開く。アディスの話は彼女にとって衝撃的だったのだ。
「オレだって信じたくねーけど、事実なんだよ」
アディスは何時もより低い声で話す。他でもないスピカのことである。
ハンスの事が判明してから、謎に包まれていたスピカの過去を友達の力を借りて調べたのだ。判明したのが、四年前に他の街で彼女がギルドで起こした事件のことだった。
エレンは額に手を当て、深い溜息をつく。
「あの子がそんなことをしていたなんてね、意外だわ」
エレンは壁に寄り掛かって囁いた、胸中は友を理解できた事に対する喜びと、彼女に了承も無しに過去の粗探しをしたことに対する罪悪感が入り混じる。
「で、アンタは何が言いたいの? スピカの汚点を伝えたかった訳?」
エレンは訊ねる。
過去がどうあれ、今のスピカは生活態度もいい。それだけは間違いない。
エレンにとってスピカは、大切な仲間だ。
アディスは首を振り「違うよ」と短く言う。
「オレだって最初はほんの出来心でやった事だったんだ、別に悪気があった訳じゃねえよ……でもよ」
アディスは傷ついたような目を見せた。「仲間のことを知りたい」という欲求により、スピカの闇の部分を知ってしまい、本人に申し訳ない気持ちになっていた。
「でも……何よ、まだいい足りない部分があるの?」
エレンは苛立ち混じりに言った。
「あるけど、言って良いのかな……スッピーにいけないことを十分にしてるのにさ」
アディスはズボンに目線をやり、出すか出さないか悩んだ。この一枚の紙には今後の交友関係を揺るがすほど重要な事が書かれている。
「もう、見せなさいよ、どうせ下らない事なんでしょ?」
エレンはアディスのポケットから一枚の紙を取り上げ、丁寧に広げる。
あまり期待していなかったが、一部の文章に目に留まりエレンの手が震え、表情が凍りつく。
そこには信じられない事が記されていた。それはあまりに残酷だからだ。
アディスが渋っていた理由が痛感できた。まさかこんな恐るべき事実に友が関わっているとは思いもしなかった。
「うそ……よね……」
「オレのダチは人様が傷つくような嘘をつかない主義なんだ」
アディスは困惑の表情を浮かべる。
スピカ、嘘だよね?
アンタが「この事」に関わっているなんて。
今日、見舞いの際に機会を狙って聞きだそうと思った矢先に魔物の大群に阻まれた。
アタシはアンタの口から「この事」を聞きたい。
エレンは護身用の鞭で魔物を払い、開けた道をアディスと共に進む。
アディスは飛び掛ってきた魔物の心臓に剣を刺し、真横からエレンを襲撃しようとした魔物も一撃で仕留める。
全身を鎧を纏った四匹の魔物が、二人目掛けて突進し、アディスは数秒で三匹を片付けた。
エレンは一匹の攻撃を読んで回避し、お得意の鞭を相手の片足を絡ませ、力一杯引っ張り魔物を地面に叩きつけた。
急な事態であっても二人は動揺せずに対処した。
「エレちゃんも戦えたんだな」
「スピカに教わったのよ、自分の身ぐらいは自分で守れるようになりたいしね」
エレンはアディスと目を合わせて言った。アディスの前で戦うのは今回が初めてである。暴漢に襲われた時の事を想定し、スピカに体術の基本を教わっていたのだ。
「すっごい魔物の数だな」
アディスは辺りを見回した。魔物の量はかなり多く、スピカの元に辿り着くまでは用意では容易ではない。
二人で一緒に倒したのはほんの少数でしかないのだ。
「スッピーの所に行くまで苦労しそうだな」
エレンは眼鏡を動かし、白衣から蒼紫色の液体が入った小瓶を出した。
「こういう事もあろうと、この薬を持って来ておいたのよ」
エレンは説明する間もなく、一帯に薬をばら撒く。酷い臭いにアディスは鼻を押さえる。
すると周辺にいた魔物の群れは悲痛な叫び声を出し、屋上が魔物の合唱で一杯になる。エレンとアディスは耳を塞ぎ、魔物の集団が音を立てて次々に倒れていくのを見届けた。
「何……したんだ?」
そっと耳から手を離しアディスが訊ねた。エレンは悪戯な微笑を浮かべる。
「単に気絶させただけよ、魔物が大嫌いな臭いでね、殴られても刺されても二十四時間は目を覚まさないわ」
エレンは魔物の体を強く蹴った。しかし魔物は動こうとしない。彼女自身が言った事は確かである。
臭いがとても強烈だったらしく、屋上にいた魔物は全て気絶してしまった。
「ただ作るのが難しいの、今ので終わりよ」
エレンは表情を曇らせる。
この薬は三分で効力を失う。強力だが長持ちしないのが欠点。
貴重な薬草と高価な薬品を惜しみなく使ってでも、エレンは道を開けたかった。真実を知るために。
エレンの願いが通じたらしく、スピカが鼻を押さえて二人の元に来た。
「ちょっと……何なのよこの臭い……」
スピカは不機嫌混じりに言った。顔色は暗い。
彼女の服は破れてはいるが、怪我は一つもない。友が無事だったことがエレンにとっては嬉しかった。
「魔物退治の薬よ、とても強烈でしょ? しばらくの間は起きないから心配いらないわ」
エレンはいつもの表情に戻った。
しかしスピカはエレンの気持ちを悟り、鼻から手を離し、真剣な顔つきになる。
「あなたが貴重な薬を使うくらいなのだから……何か大切な話があるのよね、この場でどうしても伝えたい事なの?」
「そうよ、アタシの親戚
サヤについてね」
単刀直入にエレンが言うと、スピカは紫色の双眸を一杯に開け、全身が震えた。
友達の動揺振りにエレンは胸が痛くなった。サヤとスピカは仲が良く、友を失った時の痛手がどれほど大きかったのか容易に想像できる。
「悪いと思ったけど、アンタの過去を調べさせてもらったの」
エレンの心には罪悪感が溜まっていたが、話を進める。
サヤとは小さい頃に何度か交流を交わし、エレンが十三歳になった時にサヤの両親の都合で遠い親戚に引き取られ、連絡がつかなくなっていたが、今になってサヤの名と写真を紙で見た瞬間、エレンの気持ちは複雑だった。
サヤは人の役に立つ仕事をしたいと語っていた。彼女は一体どんな事をしていたのだろうか?
「ごめんね……傷口に塩を塗るような真似をして」
聞きたいことは山ほどあったが、エレンは謝罪する。
スピカは首を横に振った。
「サヤがエレンの親戚だったなんて驚いたわ、言われてみると薬剤師を目指している所や、あなたの癖毛とか似ているわ、ずっと過去の事を黙っているのもいけなかったわね……」
スピカはエレンと目を合わせないまま、力なく言う。
そして、過去のことを話し始めた。
「サヤとは任務中に出会ったわ、わたしが怪我で動けなくなった時に、癒しの草を煎じて飲ませてくれたの、それから二人で一緒に暮らし始めたの、サヤは笑顔が可愛らしくて、料理が上手かった。毎日がとても楽しかったわ……だけど神様はわたし達の安らぎを許してくれなかった」
スピカは空を見上げる。その眼差しはどこか寂しげだった。
「四年前の事件はサヤが盗賊に捕まって、わたしは助けようと必死だったわ、サヤの笑顔を守りたかった。邪魔する盗賊達を全て倒して……でも間に合わなかった……サヤはわたしの目の前で殺されたの……あの時ほど自分の無力さを呪った日は無かった」
瞳から大粒の涙を流し、スピカは顔を隠す。
「盗賊退治の任務なんかやるんじゃなかった……凄く後悔したわ、サヤは戦いには向いていないのに、生活のために無理して苦手な任務を請け負ったの……少ない賞金でも街の落書き消しでもやってた方がよかった、サヤに憎まれても任務を破棄すればよかった……思い出せば思い出すほどこの屋上から飛び降りてしまいたい気分よ」
スピカは身を屈め、その場から動かなくなった。
エレンの心は抉られるような痛みが襲う。スピカがサヤを手にかけたなどという、何と恐ろしい想像をしたのだ。昔からスピカは友達想いの子だったのだ。
スピカはサヤを救おうと奮闘したが、努力も空しくサヤの命は盗賊に奪われたのだ。目の前で親しい人間が死ぬ事ほど、辛いものは無い。
「話してくれて有難う」
エレンはスピカを抱き締める。
「嫌なことを思い出させてごめんなさい……辛かったわよね」
エレンの瞳から涙が零れる。二人はしばらく泣いていた。魔物がいるのをお構い無しに。
アディスは黙って少女達を見守る。仲間の過去を探った事を後悔していた。二人の女の子を泣かせる原因を作ったのは、他でもない自分自身。
「スピカ、エレン……ごめん」
真面目な口調で、アディスは謝った。
三人の気持ちは沈んでいた。背後から敵が来ても気付かないほどに……
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