スピカはハンスの手を握り締め、森の中を疾走していた。
 背後から両親を殺した集団が迫っている。二人の心臓は悲鳴をあげ、両足も痛んだ。ハンスの顔からは疲労が色濃く見えた。
 しかし立ち止まれば、両親と同じ運命を辿る。それだけは避けたい。
 「姉ちゃん……僕もう走れないよ……」
 ハンスは力の弱い声で訴える。
 「頑張って、もうすぐ隣の町に着くわ!」
 スピカはハンスを励ました。隣の町に行き緊急事態を伝えることが目的である。
 そのために今は走っているのだ。何気ない町への移動も生命の危険が迫っている時は、目的地が遠く感じるものだ。
 突然、腕を強く引っ張られる感覚がして、スピカは振り向くと、ハンスが大の字になって倒れている。
 スピカは身を屈め、弟の安否を確かめた。
 「ハンス、大丈夫?」
 スピカは小さな声で訊ねる。ハンスは泥まみれになった顔を上げた。瞳には薄っすらと涙を浮かべていた。
 「もう……いいよ……僕を置いてって、僕がついて行っても姉ちゃんの足手まといになるよ……」
 「何言ってるのよ! 貴方を置いていける訳が無いじゃない!」
 スピカはハンスを背負い走り出した。一人の人間を背負うためスピカの負担も大きい。走って数分が経たない内に、呼吸が苦しくなり、足取りも重くなった。
 「もう……いいよ……」
 「嫌よ! 父さんや母さんまで失って、貴方まで失うなんて絶対に……嫌!」
 ハンスが不安げな表情を浮かべる中、スピカは途切れ途切れに言った。
 ハンスを降ろそうとは考えない。一緒に助からなければ悔いが残る。ずっと共に過ごしてきた家族を易々と手放すなどできない。
 なぜ両親を一夜にして失わなければならなかったのか? 二人の肉親は姉弟揃って分け隔ての無い愛情を注いでくれた。どんな理由であれ命を奪った事を許せなかった。敵討ちをしたかったが、現時点の自分は力不足だった。
 「姉ちゃん……ごめんね……重くない?」
 ハンスは謝罪の言葉を口にした。彼なりにスピカの体を気遣っているのだ。
 スピカは微笑んで首を横に振る。
 「わたし達家族じゃない、こんなの全然気にならないわよ」
 スピカは明るく言った。家族を守るためならば足が棒になることは、お構い無しである。
 こうしてハンスの温かみがあるだけで安心できるのだ。まだ一緒なんだ……と。
 だが、次の言葉によって、スピカは絶望の淵に突き落とされた。
 「僕のことはいいよ……姉ちゃんだけは生き延びて……僕が囮になるから」
 ハンスが静かに言い終えると、スピカの首筋に鋭い痛みが走り、急激に意識が遠のいていくのが分かった。スピカは前に倒れた。
 ハンスはスピカを見下ろしていた。瞳には強い決意を宿している。
 「ハンス……あなた一体何を……?」
 「眠り針だよ、二分も経たない内に姉ちゃんは眠るよ」
 ハンスはか細い針を握っていた。ハンスは剣が苦手な分、相手を眠らせたり、痺れさせるなど消極的な戦いが得意である。
 不意打ちを食らうのが悲しかった。よりによって家族に……
 ハンスはスピカを守りたいがために囮になる。だがスピカにとってみれば心を裂かれるほどに辛かった。目を閉じれば二度と会えないかもしれないのだ。
 「そんな……嫌よ……あなたも一緒に行くの……」
 スピカは掠れ声で言った。ハンスは悲しげに微笑む。
 「姉ちゃんの足手まといになりたくないんだ。心配しないで僕が奴等を遠くに引き付けておくから、その間に逃げて」
 ハンスはスピカの両手を引きずり、茂みの中に隠す。
 その間、スピカは全身の倦怠感によって体を動かせない。
 「姉ちゃんは僕が守るから、安心して」
 ハンスは素早い足取りでスピカの元から去って行った。スピカは弟が遠くに消えてゆくのを黙って見守ることしかできなかった。
 「ハンス……嫌……行かないで……わたしと一緒に行くの……わたしだけ助かっても……意味ないの……」
 かすれた声を発し、スピカは涙を流しながら意識を失う。
 ハンスを守れなかった心の傷を抱えて……
 
 「っ!!」
 スピカは瞳を開くと、白い天井が視界に飛び込む。
 鼻腔に薬の匂いがつき、スピカの両腕、足には包帯が巻かれている。
 塔での戦闘後、傷の手当てのため病院に向かいそのまま入院となった。肉体に受けた傷は大したことは無いが、精神的な傷が深い。
 スピカが入院してから約二週間が経ち、様々な出来事によって精神状態が不安定になっていた。
 塔を出るまでの間は強い決意を持っていた。しかし安全な場所にやって来ると緊張感が解けたことにより、考えなくてもいいことが頭の中を過ぎる様になった。
 「ハンス……ごめんね……守ってあげられなくて」
 頬に流れる涙を拭い、スピカは囁く。
 悲しい夢を見たため、心が刺さるように痛む。
 ハンスと別れてから、スピカは近くの家に保護され難を逃れた。その後森の中に入りハンスの姿を探し回ったが発見できなかった。
 スピカは後悔した。たった一人の弟を救えなかった事を。
 ハンスが殺人鬼になったのは死んだ鳥もそうだが、家族に会えない寂しさが爆発した結果によるものだ。ハンスと長い間一緒にいたスピカには分かる。
 もし逆の立場であったら、スピカがレリィアだけでなく二十人もの命を奪っていたのだ。
 スピカは体を縮め、横を向く。
 「わたしが早く走っていれば……貴方を苦しめないで済んだのに……」
 スピカはシーツを強く握る。これで何度目の後悔だろうか? 心は苦痛によって悲鳴を上げる。
 サヤの時も、レリィアの時も、素早く行動していれば惨劇を防げたはずだ。
 どうしてこうも遅いんだろう……もっと迅速に対応していれば多くの命を救えるのに。
 過ぎた時間を悔やんでも過去は戻らない。それでも自分を責めずにはいられなかった。
 「スピカ、入るよ」
 二度ほど扉を叩く音がした。エレンだ。
 スピカは何度か深呼吸をして気持ちを落ち着けた。まだ心は悲鳴を発しているが、友達を待たせたくはない。
 穏やかな声で「いいわよ」と言う。
 エレンは入ってきた。右手には小さな箱入りの袋を下げている。彼女お手製の薬草入り菓子だ。見舞いに来る際は必ず持ってくる。
 病院食に飽きているスピカにとっては、唯一の楽しみである。
 「どう、元気にしてた?」
 「何とかやっているわ、傷は癒えたんだしそろそろ退院できるかな」
 エレンは椅子に座り小さな箱を足に乗せた。中が開くと、色とりどりのクッキーが入っている。
 スピカはクッキーを一枚取り出して、口の中で噛んだ。ほんのり甘くて美味しかった。
 エレンはお菓子作りが趣味で、特にクッキーが得意である。
 「お金の面なら心配しなくてもいいの、この際しっかり休みなさいよ、体だけじゃなくて心も休養を取らないと、人生が嫌になるわよ?」
 エレンは自らが作ったクッキーを噛み砕きながら、スピカに言う。
 「……最初聞いた時は驚いたわよ、アンタに弟がいて、しかも殺人鬼だったなんて」
 動いていた口が遅くなった。気分がじわり……じわりと暗い海に沈んでいった。エレンに会った時の喜びが薄れ、憂鬱が心を侵食した。
 エレンには真実を打ち明けた。本人が口にしたように初めは目を大きく見開き驚いた様子だった。今回の件で隠せないと判断したためである。
 ただし現時点ではハンスのことだけだ。自らが街で引き起こした惨劇については話していない。
 ハンスの件だけでも、エレンに大きく動揺を与えたので、機会を見て話そうと思っている。
 「わたしも、あの子が殺人鬼になっているなんて知らなかったわ……本当よ、今までずっと音信不通だったし、何をしているのか全然分からなかったの」
 スピカは沈痛な思いを吐き出す。
 「せっかく会えたのに酷いよね、もし家族の一人が人の命を奪ったなんて聞いたら悲しいわよね」
 エレンは幼い頃、祖父母の家に育てられた。両親の顔は知らないが二人の祖父母はエレンを本当の我が子のように可愛がってもらった。
 会えなくても二人の事が好きだし感謝もしている。もし祖父母が犯罪に手を染めたのならば、奈落の底に落ちるに違いない。大切な家族だからこそ悪事を働いたと聞いただけで痛手も大きい。
 「うん……」
 スピカは力なく言った。
 エレンは険しい表情に変える。
 「今度ハンスに会ったら出頭するように説得しよう、アイツを止めないと犠牲者が増えるばかりよ」
 「でも……あの子がわたしの話に耳を傾けると思う? あの子の行動理念を考えると到底無理じゃないかしら」
 スピカの意見は最もだった。二十人以上の命を奪った上に、悪友の命を笑顔で潰した極悪非道な犯罪者に、話し合いで止まるとは思えない。
 例え、姉のスピカであっても腐敗したハンスの魂が言葉で揺さぶれるのか疑問である。
 エレンの言うように、ハンスを説得し警察に出頭させ、極刑を免れるように精一杯努力する。それがスピカの理想だった。
 スピカはハンスの手を握り、大丈夫よあなたを死なせたりはしないわ、きっとお姉ちゃんが助けてあげる。ハンスに優しく言い聞かせて一緒に警察に行く。
 空想ではなく、現実でそうなったらどれだけ良いだろうか。
 「私は警察なんかに行かないよ、まだやりたいことがあるしね」
 最も聞きたくない声が、窓の方から聞こえた。
 スピカとエレンは振り向くと、壁際で腕を組んでハンスが涼しげな笑みを浮かべて立っていた。
 
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