「ハン……ス……」  
 スピカの全身が硬直し、ハンスを凝視していた。
 最もいて欲しくない人間がこの場所にいる事に体が拒否反応を示している。額からは冷や汗が噴出し、恐怖心が湧き上がる。
 家族なのに怖いと感じてしまうのが悲しい。
 「どうしてここにいるのかって聞きたいんだろ? お姉さまは考えが顔に出るから分かり易いよ」
 ハンスはマントをなびかせて動く、冷たい笑みを浮かべて。
 彼の紫色の瞳は、肉食獣のごとく鋭い。その内の残酷さを物語るように……
 ……嫌だ。来ないで、来て欲しくない、おまえはハンスの名を語る偽物だ。来るな。来るな……
 心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。
 昔はあんなに優しかったのに、今はその微塵すら感じない、精神状態の悪化からハンスに再び会えた嬉しさを噛み締める余裕など無い。
 いや普通の精神状態でも、ハンスのような極悪人に会うのは恐怖以外の何物でもない。元にエレンは呆然と立ち尽くしている。
 スピカは後ろへと下がり、ハンスの脅威から逃れようと心がけた。だがここで浮遊感がしたと思えば、背中から地面に落っこちた。
 「いったぁ……」
 スピカは声を上げて、背中をさする。
 「大丈夫?」
 エレンは心配そうな表情で、スピカを見た。
 背中の痛みは大したことは無いが、些細なアクシデントによって、エレンの緊張が解れたようだ。
 「この位平気よ」
 スピカは作り笑いを浮かべ、立ち上がった。内面は逃げたいと暴れまわっている。
 ハンスはスピカの失態に口元を緩めた。
 「お間抜けなお姉さまだね、そんなに私が怖いのかい? 昔は長い時間一緒にいたのにね」
 ハンスは皮肉を込めて言った。彼の声はどこか寂しげだった。まるでスピカに拒絶されたのを悲しむように。
 胸がちくっと痛み、スピカは手を当てる。
 何だかんだ言って、家族と共に過ごした時間を忘れたわけでは無い。
 しかし、スピカは気を許さない、ハンスは悪友を殺した殺人鬼だからだ。
 「心配要らないよ、別にお姉さまを殺ろうだなんて微塵に考えちゃいないよ、ここに来たの
もお姉さまを捕らえるためだよ」
 ハンスが軽く指を鳴らすと、窓、扉から八人の男が音を立てずに侵入してきた。闇の集団の兵士だ。
 スピカはエレンと背中を合わせる。
 「お姉さまの居場所を探すのは苦労したね、こいつに拷問をかけてようやく口を割らせたよ」
 ハンスは扉にいる一人の兵士に目線で命令すると、扉が開き、傷だらけの初老の男が入ってきた。スピカが世話になってるギルドのマスター・ウィルだ。
 ウィルの全身は至る所の服が破れ、青い痣や打撲が見られる。口からを血を流している。ウィルは兵士に背中を蹴られ、地面に叩きつけられる。
 スピカの入院先は、闇の集団の襲撃を防ぐために伏せておいたのだが、他人を巻き込むという悲惨な結末になってしまった。
 スピカはウィルの側に駆け寄る。
 「スピカ……すまないな……」
 ウィルは弱々しくスピカに言った。スピカは薄っすらと涙を浮かべて首を横に振る。
 「マスターの命が助かっただけでも良かったです。ごめんなさい……わたしのせいで……辛かったでしょうね」
 スピカは近くに寄って来たエレンから傷薬を受け取り、ウィルの手当てをする。
 ここまで酷い拷問を受けて生き延びただけでも奇跡とも言える。口を割ったのは正解だったのかもしれない。
 ハンスはスピカの思いを逆撫でするような言葉を口にした。
 「そいつは中々の頑固者でさ、あちこち傷付けても口を割らなかったんだよ、そこで私は家族を目の前でミンチにする、特に孫娘のレベッカちゃんを丁寧にミンチにしてやろうって言ったんだ。そしたら顔色を真っ青にして、ようやく話してくれたんだよ、家族絡みになると人は弱いねぇ」
 ウィルの手当てをエレンに任せ、スピカは黙って立つ。
 あまりに非道な言動に、憂鬱な気持ちが消え、怒りのマグマが吹き荒れる。
 ウィルは人柄が良く、家族のことを他の誰よりも大切にしている。家族が病気をすれば仕事の途中であっても駆けつけ、孫娘が良い成績を取れば、万遍の笑みを浮かべギルドの皆に話していた。
 スピカは早足で、ハンスに近づく。
 「ハンス……わたしはねあなたに出頭してもらいたいと思ったの、あなたにこれ以上罪を重ねて欲しくないし……」
 腰に隠し持っていた短剣を取り出し、ハンスの顔面に突きつける。
 「わたしにとって親しい人を傷つける真似をさせたくなかったから!」
 「ふっ、面白いねお姉さまは、さっきまでは私にびびってへっぴり腰だったのにさ」
 ハンスは鼻先で笑った。しかしスピカは挑発には乗らない。怒りのマグマが噴火したからだ。
 ウィルはスピカがこの街にやって来て初めて世話になった人物で、左右も分からなかったスピカに対し親身になって相談に乗ってくれた。
 スピカに親切にしてくれた人間を傷付けられたのだから、黙っていられる訳が無い。
 「マスターを傷つけた事は許せないわ」
 スピカは鋭い目つきでハンスを睨む。
 「少し遊ぼうか、あっさり帰るのも退屈だったんだし」
 腰から剣を抜き、両手で構えた。ハンスもやる気十分である。
 「エレン、手出しは一切しないで、マスターを頼むね」
 「お前達、手出しは無用だよ、もし余計な事をしたら死ぬより辛い目に遭わせるからね」
 スピカは友に、ハンスは自らが連れて来た部下に伝える。姉弟の言葉によりその場の空気を静寂に変化した。
 戦いの火蓋は、スピカの先制攻撃によって落とされた。スピカはハンスの懐に潜り込み、短剣を鉄の刃にぶつける。ギリギリ……と耳障りな音が鼓膜を叩く。
 ハンスは余裕の笑みを浮かべ、右足を蹴って後ろに飛ぶと、背後にあった壁に両足を当て、大砲のごとく、スピカに剣先を向けて飛んできた。
 スピカは低く身を屈め、ハンスの攻撃が来ると共に、半月を描くように斬る。
 姉弟の攻撃がほぼ同時に決まり、空中にいたハンスの服はぱっくり裂け、スピカの黒い髪が切れて宙を舞う。
 「前に闘ったよりも切れ味が違うねぇ」
 スピカが眠っていたベットの上に着地し、ハンスはニヤニヤする。
 「あの時は本気を出していなかったもの、あなたを止めるためにね……今回はあなたを成敗する気満々よ」
 「そう来なくっちゃねえ!」
 興奮交じりにハンスが叫び、スピカに肉薄をかけ連続攻撃を繰りだしてきた。一撃一撃を受け止める度に手が痺れる。相手も全力を出している。
 前に闘った時は連続攻撃をまともに食らって傷を受けたが、ハンスの行動が読めて、余計な傷口を増やさずに済んだ。
 こうして剣を交えていると、ふと脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。スピカはハンスと木刀で剣士ごっこをやってた事があった。いつも弟の顔を立てたいと思いスピカがわざと負け、ハンスは自信満々に微笑んでいる。
 塔の時は、賞金稼ぎの任務がスピカの心を緊張と不安で縛っていたが、再びハンスと闘っている今は任務とは関係なく、剣士ごっこの再現をしているような気分だった。
 ハンスが剣を横に振ると、スピカはハンスの真上を飛び、彼の背後を取る。
 攻撃は仕掛けない、相手に質問を投げかけるために。
 「ねえ……こうして闘っていると昔のことを思い出さない?」
 スピカは浅い呼吸を繰り返しつつ、ハンスに訊ねた。
 ハンスは剣を降ろして振り向く。
 「お姉さまとは考えが合うね、全く同感だよ」
 「ここは狭すぎるから屋上で闘わないかしら? 思う存分動けるわよ」
 「そうだねぇ、だったらそうしようか」
 二人は一緒に動き、窓から外に出て、屋上へと移動する。
 姉弟だからか、考えることは同じのようだ。
 空は白い星空が瞬き、黒い双子を見守っていた。

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