野々村くんの支えは、力強いが、時と場所によっては、揺らいでしまう。
この日は強く思った。

私の前には、両手足を拘束され横たわる人がいる。
「この人……誰ですか?」
私は指を差して隣の禊ヶ丘先生に訊ねる。
「こいつはよぉ、とんでもねぇ犯罪者だ。何の罪もねえ人間を平気で何人も刺したヤツだ
今は死刑判決が出て、刑の執行を待つ身だ」
犯罪者という言葉に、私は表情が引きつった。
禊ヶ丘先生は私に構わず続ける。
「刑務所の警備を掻い潜って、連れてきたんだぜぇ」
私は生唾を飲み込んだ。凄く嫌な予感がする。
だが、聞かない訳にもいかない。
「……何のためにですか?」
私が訊ねると、禊ヶ丘先生は待ってましたと言わんばかりに目を輝かせる。
「お前に殺してもらうためだぜぇ」
禊ヶ丘先生の言葉に、私は立ちくらみがした。
「何でですか?」
頭を押さえつつ、私は訊ねた。
混乱のためは声が震えてるのが自分でも分かる。
「人間観察のためだ。何も直接やれなんて言わねえぜ」
禊ヶ丘先生は白衣から複数のボタンがついたスイッチを出した。
ボタンには、手、足、首、胴体と書かれている。
「こいつを押せば、書かれた体の部分に電流がいく仕組みだ」
禊ヶ丘先生は「胴体」と書かれたボタンを押すと、横たわる人間は苦痛の叫び声を上げた。
聞いてて辛くなり、私は耳を手で塞いだ。禊ヶ丘先生はボタンを押しっぱなしのまま笑っている。
普通の人間だったらきっと耐えられない。なのに禊ヶ丘先生は平気な顔をしている。どういう人生を歩めばあんな風になるんだろう。私には理解できない。
「おっと、あんまやり過ぎると渡す前に死んじまうな」
ボタンから手を離すと、電流が消えたらしく、人間……いや男性は苦しげに呼吸をした。
どうやらボタンを押しっぱなしにすると電流が流れる仕組みのようだ。
「次はお前がやってみろ、中々楽しいぜぇ? 自分の手に人の運命があるってのはよぉ」
禊ヶ丘先生は私にスイッチを差し出した。
胃が痛み、不快感がこみ上がる。
心の中では嫌だ嫌だと、もう一人の私が叫ぶ。
例え死刑囚であっても、私にはできない、私がボタンを押して男性が死んだら殺人になる。
私はずっと罪を背負って生きていかなくてはならない。
そんなのは御免だ。
「どうした。まさかやらねぇなんて言わねぇよな」
沈黙に耐えきれなくなったのか、禊ヶ丘先生は口を開く。
「……ません」
「あ? 聞こえねえよ」
「できません」
私は毅然とした態度をとった。
「こんなの可笑しいです。禊ヶ丘先生は私の力を調べたいだけなんですよね? 禊ヶ丘先生がやらせようとしているのは関係ないことだと思います」
私は率直に言った。禊ヶ丘先生は不愉快そうに表情を歪める。
「何だお前、俺に逆らう気かぁ?」
スイッチを手に持ったまま、禊ヶ丘先生は私に迫り、私は唇を噛み締めて後ろに下がる。
「可笑しいと言って何が悪いんですか」
私は言った。
「いい加減に私と野々村くんを家に帰して下さい、実験とかもう嫌なんです」
心の底から私は叫ぶ。
理不尽な理由で監禁されたストレスが後押しし、反抗的な言葉が口から出た。
「残念だが、すぐには無理だぜぇ」
禊ヶ丘先生は左のポケットからまたスイッチをとり出す。
今度は青紫色のスイッチだ。
ピリピリとした雰囲気からして、とてつもなく嫌な予感がした。
「お前には俺に歯向かった罰を受けてもらうからな」
禊ヶ丘先生がスイッチを押した直後だった。
突然胸が苦しくなり、立っていられず私はその場にうずくまった。
「……うっ……あっ……」声が出ない。
私が苦痛にもがいていると、禊ヶ丘先生は私を見下ろしていた。
満足げな笑みで。
「どうだぁ、逃走防止にお前の体内に仕組んだチップの威力は、すげー辛いだろ」
禊ヶ丘先生は説明した。
私が眠っている時に勝手に植え付けたんだ。
この人はどこまで人をモルモット扱いすれば気が済むの?
苦しいのに意識が飛ばないのは辛い。こうしたのも禊ヶ丘先生が仕組んだとしか思えない。
「初めて試したが、お前を見ると効果はかなりのモンだなぁ」
私は禊ヶ丘先生を睨みつけた。私にできる唯一の抵抗だ。
が、この行いが、状況を更に悪化させることとなる。
「何だその目は、全く懲りてねぇようだな」
禊ヶ丘先生は私の服を掴み、私を引きずる形で歩き出した。
「お前には更にきつい罰を与えらぁ」
禊ヶ丘先生は不機嫌な口振りだった。

苦しみの波は引いたが、私は両手足を拘束され、身動きが取れない。
さっきの死刑囚と同じ状態だ。
……私は、どうなるの?
今になって、自分の行いを後悔した。
……私……死ぬの?
禊ヶ丘先生ならやりかねない。人を人だと思わない性分なので可能性はある。
怒らせたのなら尚更だ。
……野々村くん。
私は野々村くんのことが気になった。
私だけが傷つくのはいい、でも野々村くんまで危害が加わるのは嫌だ。
彼は私にとって大切な存在だ。何かあったらと思うだけでゾッとする。
考えている間に、車輪が引きづられる音に混ざり、足音がこちらに近づいてきた。
音がする方角に目を向けると、禊ヶ丘先生が点滴台を持って現れた。
「待たせたな、お前に相応しい薬を調合するのにちぃっと時間がかかっちまったぜぇ」
恐怖のあまり私の体は凍りつく。
禊ヶ丘先生は私の手首に消毒液を塗った。
「私を……殺すんですか?」
私は恐る恐る訊ねる。
禊ヶ丘先生は準備をしつつ、私の疑問に答えた。
「そいつは無ぇなあ、お前は俺にとっちゃ貴重なサンプルだ。時間を操作できる力を持ったお前には死んでもらっちゃ困るぜ」
禊ヶ丘先生は淡々と言った。
点滴の針を持ち、私の手首に当てる。
「だが今からやることは、死ぬより辛えかもなぁ?」そう言った直後に私の手首に鋭い痛みが走り、私は表情をしかめた。
「今から面白ぇことをしてやるからなぁ」
禊ヶ丘先生は点滴をいじると、点滴の管からは黒色の液体が流れだし、私の手首に進んでいった。
「どういう薬なんですか……?」
「さあな、効いてからのお楽しみだ」
禊ヶ丘先生は私をまじまじと見つめる。
しばらくの間、沈黙がこの場を包んだ。天上は真っ白で、時計がなく、どれ位の時間が経ったか分からない。
このまま薬の効果が現れなければいい、とさえ思ったが、私の願いは突然襲ってきたパンの耳の群れによって打ち砕かれることとなる。
「ひいっ」
私は変な声を上げた。
パンの耳の群れは、私の両足を素早く移動し、私の首にまで来た。
「いやあっ! 来ないで!」
私は声を体を滅茶苦茶に動かして暴れた。
私は母に無理やりパンを食べさせられたことが元で、パンを見るのが怖くなった。特にパンの耳は黒いアレ以上に大嫌いだ。
嫌がらせのように母が、パンの耳だけを集めて私に食べさせられたからだ。
あの固い食感は思い出すだけで吐き気がする。
パンの耳の群れは私の口に入ろうとしてくる。私は口を閉じた。
「どうやらお前にとって嫌いな物が出る薬に仕上がったようだなぁ」
禊ヶ丘先生は笑いながらいった。
「そんな状態があと二時間は続くぜぇ、こいつぁ面白ぇもんだな
どうだぁ? 嫌いなもんが幻でも出んのは」
禊ヶ丘先生の話しに、私の頭は真っ白になった。
二時間もの間私にとって嫌いな物が延々と出る。
パンの群れがずっと……それは拷問だ。
私が口を閉じていると、あろうことかパンの耳達の体が縮み、私の鼻に侵入してきた。
こんなの現実ではあり得ない。だからこそ余計に恐ろしい。
大きくても、小さくなても私はパンが体内に入るのは嫌だ。
「やめて! 入って来ないで!」
容赦なくパンの耳の群れが開いた私の口や、鼻に飛び込んでいった。
幻でも、怖いものは怖い。

逃げようにも、体は自由は効かない。しかも大嫌いな物が群れをなして私に向かってくる。
もう野々村くんのことにまで頭が回らなくなっていた。

この後のことは記憶が途絶えている。私の精神が耐えられなくなったり、記憶するのを止めたのだ。
思い出せば、私の心は壊れてしまう。途切れる前のことを思い出すだけでも胸が裂かれそうだ。

案の定、自室の冷たい床の上で気付いた時には、しばらくの間動く気になれなかった。 
薬の効果は切れたのか、私が嫌いな物が襲う幻は見えない。
それでも、私の気力と記憶が失われる位だから、良い状態とは言えない。
……休ま……ないと
冷たい床にいたら風邪を引いてしまう
ベッドに横たわりたいと思い、私は気力を振り絞り、体を起こした。
頭が重く、立てないので、私は四つん這いになって、ベッドに向かって進んだ。
「はぁ……はぁ……」
息を切らしどうにかベッドにたどり着き、私はシーツを力一杯握りしめ、ベッドに上がることができた。
ベッドにうずくまり、私は眠ろうと目を閉じる。
私の体と心は疲れ果てていたので休む必要があった。
……野々村くんはどうしているんだろう?
隣にいるであろう野々村くんのことが、私は気にかかった。
何も無ければいいが。
野々村くんの安否を気にしつつ、私はいつの間にか眠りについた。


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