ハンスとマリアは廊下を歩いていた。
「いやあ、いつもすみませんね」
ハンスは隣に一緒にいるマリアに謝罪した。彼女のお陰で罰は戦闘停止三日で済んだからだ。
マリアは呆れた表情を見せた。
「……反省してる?」
「してますよ、今回ばかりは度が過ぎましたからね」
ハンスは素直に非を認めた。兄弟喧嘩でも限度があるのをわきまえているからだ。
マリアが助け舟を出してくれなければ、戦闘停止の処罰に加え食堂で皿洗いをさせられていたことだろう。
罰が軽くなった点ではマリアには感謝しているのである。
「それよりも、お姉さまは大丈夫でしょうかね」
ハンスは一緒に生を受けた姉のスピカのことが気になった。
闇の集団を脱走しようとしたため、重罰は確実だ。
過去に闇の集団から逃げ出そうとした者が数人いたが、誰一人として逃げ切れた者はいない。
その後、逃走した罪により、島流しにあったのだ。
果たしてスピカの処罰はどうなるのだろうか? 唯一の身内であるハンスは彼女の安否が心配になった。
「彼女の罪は貴方よりも重いわよ、闇の集団を脱走しようとしたのですから……アーク様のことだから処刑まではいかないでしょうけど」
マリアは視線を落としたまま、口を開いた。
「せめて給料三ヶ月半減にしてもらいたいですね、ま、決めるのはアーク様ですけどね」
ハンスは祈った。スピカの罰が重くならないことを。
二人が歩きながら話し合っていたその時だった。波動が大きく乱れるのを感じ、ハンスは立ち止まった。
「どうしたの?」
マリアもハンスに続いて足を止める。
「マリア師匠、一つ聞きたいんですけど」
辺りを見回しながら、ハンスは訊ねる。
マリアはハンスの行動が気になった。彼女には波動を感知できなかった。
「何?」
「まやかしの夢はいつか醒めるものですよね」
ハンスの紫色の瞳が鋭く輝く。
彼にしか波動の揺らぎ感じなかった。何故なら今の波動はスピカが放ったものだからだ。
「う……ああああっ!」
体に触手が巻きつき、スピカは悲鳴を上げる。
アークは彼女が苦しむ様子を無表情で眺めている。
「あまりもがくな、そいつはもがくほどに一層きつく締めついて来る。無駄な抵抗はやめてさっさと魔法陣の中に潜れ」
アークは言った。
スピカを拘束している触手は、アークが召喚した魔物の一種である。スピカの真後ろには魔法陣が輝き、そこが出現元となっている。
アークにとって記憶を消すことは簡単なことだが、スピカに自分が犯した罰を知ってもらおうと、厳しいものにしたのだ。
魔法陣の中に入れば記憶は失われる、スピカはそれに抗い、触手は更に締めついて来る。とても酷な罰である。
それでもアークの意見を飲み込む事ができず、スピカは魔法陣に入るまいと必死に抵抗した。忠告どおりスピカが動けば動くほど触手の拘束力が強くなっている。
痛みのあまりに脂汗が額から流れ、体中の骨が軋む。
……失いたくない、失いたくないよ、折角手に入れた暖かい気持ちを。
スピカは触手を振りほどこうと、力を振り絞って再び体を動かした。しかしびくともしない。
解放される所か、更に触手の拘束が強くなり、全身の力が抜けた。
その瞬間、スピカはあっという間に魔法陣の中に吸い込まれていった。
アークは微笑んでいた。罰が執行される喜びを味わうように。
スピカはアークの顔を脳裏にしっかり焼き付けた。魔法陣に入り、光に覆われるまで。
アークに負の感情を抱いた事はなかったが、今回ばかりは恨みたくなった。人間らしい部分を奪い、無機質な人形に戻そうとする彼の行いをどうしても許せなかった。
スピカは漆黒の中にいた。
そこは何も無く、ただただ暗いだけの空間だった。
触手は消え去ったが、次はチェリクと過ごした日々が記憶から失われようとしていた。チェリクの暖かい笑顔が、思い出が無くなる。それだけは避けたくてスピカは意識を集中し、記憶を掴んでいたが、まるで雲のように離れてしまった。
スピカの意志に関係無しに、チェリクに関する記憶はスピカの中からゆっくりと消えていった。微かにチェリクとの記憶は残っているが、時間の問題だ。
……わたしはこのままチェリクを忘れるの? そんなのは嫌だ。もう殺戮人形に戻りたくない。
記憶を失った代わりに、思い出したくない記憶が段々と蘇ってきた。それはハンスと共に次々と人を血祭りに上げ、殺人を楽しんでいた。
無抵抗の人を何度も刺したり、時には瀕死の重傷を負わせて相手の歪んだ表情を見て愉快に思ったりと、吐き気がするほどの行いをしていた。
……過去にこんな恐ろしいことをしていたの? 酷すぎる。
スピカは身震いがした。また元の自分に戻る事が。
そうなると罪の無い人間が、チェリクが死ぬかもしれないのだ。
心の内側から、過去のスピカが囁きかける。早くわたしを返して、そしてまた戦いを楽しみたいのよ、と。
普段は聞こえない心の声が、この空間でははっきりと聞こえてくる。
……誰が渡すものですか! あなたは偽物だわ、わたしの中から消えて頂戴!
スピカは自分に負けまいと叫ぶ。
が、過去のスピカは消えなかった。それどころか、スピカの思考は確実に蝕まれ始めた。
ヒトの歪んだ顔、叫ぶ声、どんな風に刺すか……穢れた思考にスピカは言葉を失う。
胸が痛む。人を傷つけたり殺めたりする事に対する罪悪感からだ。
かつての自分に戻れば、この痛みも失われるだろう。
やはり昔には逆らえないのだろうか。チェリクから貰った贈り物は無意味なのか?
抗えない運命に、スピカの心は悲しみの嵐が吹き荒れる。
……スピカ。
黒い空間にか細い声が響き、スピカは声がした方を見る。
そこには小さな光があった。
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