私は電車に揺られ、過ぎ行く町やネオンの輝きをぼんやり眺めていた。
時間帯もあってか電車には人が多い。
次は……です。
もうすぐ私が降りる駅だ。私は疲れきった体に鞭を打って立ち上がる。
電車は止まり、人の波が一斉に出口に殺到し、私もその中に紛れ込む。
人の群れを足早に抜けて、改札口を通り、駅の外に出ると、そこには兄の顔があった。
普段は父か母が迎えにくる。兄が来るのは初めてだった。
「お兄ちゃん」
私は兄の顔を見つけるなり、側に駆け寄る。
兄は三年前に結婚し、同時に家を出ている。
最後に会ったのは三ヶ月前の正月の集まりの時以来だ。
「久しぶりだな」
「うん、久しぶりだね、美智子さんは元気?」
「美智子は相変わらずだよ、由香に会ったら宜しくってな」
久々の再会に、私は笑った。
美智子さんというのは、兄の奥さんだ。
「今日はどうしたの?」
私は訊ねた。兄は実家にあまり帰らない。
帰ったとしても、用事がある時くらいである。
すると、兄は途端に表情を曇らせた。
何か良くない事が起きたのが明確だった。
「とりあえず車に乗れよ、寒いだろ」
私は黙って車の中に乗った。車が駅から離れた所で兄は口を開いた。
それは驚くべき内容だった。
「昌樹の奴、一年間大学サボっていたんだってよ」
兄の言葉には不機嫌さが滲んでいた。
背中しか見えないけど、怒っている様子なのが伝わってくる。
「今後どうするのか、親父とお袋が昌樹を交えて会議するんだとよ、場合によっては昌樹には家を出て行ってもらうってさ」
「そんな……」
昌樹というのは、私よりも二つ年の離れた姉だ。頭が良くテストも常に上位をキープしていた。
私に勉強や家事も教えてくれたり、面倒見が良く、そんな姉を私は誰よりも尊敬していた。
無論大学も、名のある所に通い始めた。姉のことだから大学を卒業したら良い企業に入るだろうと、そう思っていた。
でも、現実は違った。
姉は変貌していった。それも悪い方向に。
友達に誘われゲームにはまるようになり、やがて部屋に引き篭もるようになってしまった。昨年は大学側から成績不良の通知が届き、それを見た母はショックを受けていた。
昨年、姉を交えて家族会議をした時には「これからは頑張る」と宣言していた。
兄の話を聞く限り、姉は自分の宣言を守っていなかったということになる。
私は悲しさと悔しさで、胸の中が一杯になり、自然と手の力が強くなった。
「お姉ちゃんの嘘つき……」
怒りを晴らすように、私は自分の膝を叩く。
目頭が熱くなった。
私が就職したのも、姉の学費を少しでも援助するためでもあった。姉は私の気持ちを踏みにじったことにもなる。
それが許せなかった。
「落ち着けよ、喧嘩しても事態は変わらないぞ、今回の件で一番損しているのは昌樹自身なんだからな」
「……」
兄が釘を刺し、私は黙った。
兄の言うことは正しい、姉と口論になっても、余計に状況を悪化させるだけ。
前に私は姉と生活態度を巡って激しい口論となったが、結局解決はしなかった。姉は食事の時でも自分の部屋で取るようになってしまい、顔を合わせることは殆ど無くなってしまった。
今もその状態が継続中である。
再び喧嘩をしても、何も変わらない。
信号が赤から青になった所で、私は自分の胸の内を打ち明けた。
「私ね、お姉ちゃんを信じてたんだ。ちゃんと学校に行ってるって」
私は俯いたまま言った。
「でもさ……これって裏切りだよね、最低だよ」
私の声は震えた。
「そうだな、あいつには反省してもらわないと、由香が会社で頑張ってるのに酷い奴だよな」
兄は私に労いの言葉を掛けた。嬉しさのあまり私は涙が零れた。
兄が迎えにきたのも、私の気持ちを解すためでもあったのだ。両親の気遣いに感謝したい。

しばらくして家に着き、私と兄は車から降り、玄関へと向う。
扉を開けようとした矢先に、兄が忠告してきた。
「今は三人で話し合っている最中だから、静かに行けよ」
「お兄ちゃんはどうするの?」
「俺は話し合いに参加する、由香は二階で待ってろ」
兄は先に行くと、私は後からついていった。
私が話し合いに混ざるとこじらせかねないので、その配慮のためだろう。
リビングからは母の声がする。それからすぐに姉の声が聞こえた。どちらも穏やかなもので普通の話し合いに聞こえた。
怒鳴りあいでなくて、とりあえず安心した。
家族であっても、荒れた声など聞きたくない。
私は極力音を立てないように階段を上がり、自分の部屋に入って荷物を下ろした。
お腹が鳴った。そういえば昼から何も食べていない。話し合いが終わったら食事にするのね。
瞼が重くなり、私はベッドへ横になった。私はすぐに眠りに落ちた。

気が付くと、私は昔の時間に戻っていた。
姉がまだ普通だった頃だ。
『由香、勉強はちゃんと進んでる?』
姉は優しく語り掛けてきた。長いさらさらの黒い髪に、綺麗な顔立ち
全て私が尊敬していた姉である。
姉は私の勉強がちゃんと進んでいるか時折見てくれた。
『してるよ』
私は言った。
『なら良いけど、ここでしっかりやっておかないと後々苦労するわよ』
『分かってるよ』
私は姉から問題集に目線を変えた。口うるさいが、姉は私のことを気にかけていた。
これは私が中学三年の頃の話。
受験勉強は大変だったけど、姉のアドバイスのお陰で、レベルの高い高校に合格する事ができた。
この時期は姉妹の関係は比較的良かった。懐かしかった。
夢は切り替わり、私が高校二年生の時になった。
『お姉ちゃん、ご飯だよ』
私は扉を叩き、姉を呼ぶ。
しかし姉は出てこない。
再三に渡って呼んで出てこない事は珍しくはない。
私は溜息をつき「入るよ」と一声かけて、扉を開いた。
姉はスピーカーを耳にして、ゲームに夢中だった。これじゃあ私の声も聞こえない訳だ。
空になった容器や、菓子パンの袋などが地面に散乱し、そこから悪臭が漂い鼻に付く。姉はゲームに没頭するようになってから身の回りの整理をしなくなった。
私は姉に近づき、肩を軽く叩く。
『ご飯だよ、早く食べないと冷めちゃうよ』
私は声を掛けた。すると姉は鋭い目で私を睨む。
あまりの怖さに、私は思わず後ずさりして、その際スープの入った容器をひっくり返してしまった。
姉が私に手を上げるんじゃないかと恐怖すら感じた。姉の顔はきつかった。
……ゲームを邪魔されて、よほど不愉快だったのか、今まで私に見せた事の無い表情であった。
ゲームの何が楽しいのか私には理解できない、画面に向ってコントローラーを作業的に動かす。何が面白いの?
機械が私の知っている姉を奪っていったと思うと憎くてたまらなかった。
この件をきっかけに私は姉に対し、わだかまりを抱くようになった。姉との関係も時間と共に変わった。昔は尊敬できる人物だったけど、今は軽蔑し相手にしたくない存在。
一つのつまづきがドミノ倒しのように、状況を悪化させていった。
一緒に遊んで、笑って、時には下らない喧嘩もしたけど私は姉といて楽しかった。
どうしてこうなったんだろう。

扉を叩く音が部屋に響き、私は夢から引き剥がされた。
「由香、終わったぞ」
兄に呼ばれ、私は目を扉に向ける。
兄が扉を半分開けて私を見ていた。私は起き上がり、兄の元に駆け寄った。
「どうだった?」
「昌樹は学校をやめて働くってさ、あいつ学校に行っているフリして、ずっと友達と遊んでたんだってよ」
私は溜息をついた。同席しなくて正解だ。こんな話を直接姉から聞かされていたら姉とは大喧嘩になっていた。
姉が自室に戻ってきた。疲れているらしく死んだような顔をしている。
気の毒だが姉の自己責任だ。

それから姉は就職し、一人暮らしを始めた。
社会の厳しさ、仕事の大変さなどを痛感している様子が、送られてくるメールから伝わってくる。
姉は時々家に帰って来る。表情は生き生きしており、私が知っていた頃の姉に戻っていた。
姉妹の仲も少しずつではあるが回復してきた。最近では休みの日に一緒に旅行へと行ってる。
来年には海外旅行へと行く予定で、姉と共に英語の勉強に励んでいる。
姉を見て思った。一つのことをやるこのを構わないが、度が過ぎると人に迷惑がかかるということが。
姉が私に手紙をくれた。
それには、こう綴られていた。
「今までごめんね、これからはちゃんとやるから、由香も頑張ってね」

-完-

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