……誰だ。我の眠りを妨げる者は。
聞いた事の無いおぞましい声に、双子は動きを止める。
おぞましい声は更に続いた。
……ほう、欲のある人間かと思えば、まだ穢れを知らぬ子供ではないか
ハンスは箱から離れ、スピカにしがみつく。
「姉ちゃん……怖いよ……」
突然の恐ろしい声に、ハンスは涙声になった。
スピカは生唾を飲み込んだ。ハンスと同じく声に恐怖して足がガタガタと震える。
よく聞いたら、この声は箱から発せられているものだと分かる。
スピカはハンスと共に、後ろへ五歩下がった。もはや喧嘩どころではないからだ。
「あ……あなたは誰なの?」
スピカはたどたどしく訊ねる。
すると声は答える。
……我はそなたが開放した箱に眠りし者……開けてはならぬという忠告を破ったからには相応の罰を受けてもらわねばならぬ。
悪意に満ちた声に、スピカの背筋が凍りつく。
何か嫌なことが起きると察しがついた。
道理で箱と鍵が別々になっている訳だ。しかし後悔しても遅い、開ける前の状態に戻す事はできない。
せめてハンスだけでも守らなければならない。
それが唯一の道。
「ハンス、一回しか言わないからよく聞いて」
スピカは小声でハンスに言った。
ハンスは顔を上げた。彼は怯えきった表情をしている。
「わたしが合図したら倉庫から逃げるの、そしてお父さんとお母さんを呼んできて」
「姉ちゃんは?」
「わたしは箱を閉めてから行く、すぐに追いつくから心配しないで」
スピカは作り笑いを浮かべる。
例え自分に何かあっても、ハンスを危険から回避させたかった。
「箱の主さん、開けてしまったことは謝ります。せめてハンスだけは見逃してくれませんか?」
スピカは勇気を振り絞って言った。
すると、声は言葉を返した。
……そなたにとって、ハンスとやらは余程大切なようだな。面白い。
箱はガタガタと動き出し、中からは黒い物体が溢れ出す。
嫌な予感がして、スピカはハンスに「走って!」と叫ぶ。
ハンスは素早く扉に向って走り出す。
だが、ハンスを守りたいというスピカの思いは叶わなかった。
黒い物体は箱から出るなり高速でハンスに近づき、彼の全身をあっという間に飲み込んだ。
悪夢を見ているようだった。
「うわぁぁああっ! 姉ちゃん!」
弟の絶叫にスピカはいてもたってもいられずに、ハンスの元に駆けつける。
「ハンスうっ!」
ハンスは黒い物体から逃れようともがき、スピカも黒い物体を取り除こうとした。
が、黒い物体は触れようと手の中をすり抜け、すぐにハンスの元に戻ってしまう。
「ハンス大丈夫!?」
スピカは訊いた。
ハンスはしばらくの間は暴れていたが、段々と動きが鈍くなり、しまいにはピタリと動かなくなってしまった。
黒い物体が上手く取れないことに加え、ハンスの返答が無くなったのが怖かった。
「ハンス! 返事をして! ハンスっ!」
かろうじで一口の大きさの黒い物体を手で掴み、後ろに投げつつ、ハンスに問いかける。
やはりハンスの返答は無い。
ハンスが死んでしまったのではないのかと思った。不安がスピカの胸の中で増幅した。
……案ずるな、単に気絶しているだけで生きておる。
黒い物体はハンスの全身から消え失せた。
「ハンス!」
スピカはハンスの体を自分の前に動かし、胸に耳を当てる。
確かに心臓の音が聞こえる。声の言うように命だけは取りとめたようだ。安堵のあまりスピカは薄っすらと涙が出た。
ハンスに何かあったら悲しい。我儘で、スピカを困らせたり、時には喧嘩もするが彼はスピカと共にこの世に産まれ出てきた家族だからだ。
こうして生きているだけで嬉しい。
安心するのも束の間、スピカは涙を拭い、ハンスを地面にそっと置くと、箱を睨みつける。
「ハンスに何をしたの?」
箱に近づき、スピカは問いかける。
……それは奴が起きてから分かることだ。
声は意地悪を言った。
「わたしはあなたを許さない、ハンスを酷い目に遭わせたから」
スピカはじりじりと箱に歩み寄る。
……今度はそなたが罰を受ける番だ。怖くは無いのか?
「怖くは……ないわ」
スピカはぎこちなく言った。また黒い物体が飛び出してくると思うと恐ろしいからだ。
それでも被害を小さくしたいという気持ちが、スピカの背中を押している。
……ならばそなたにも受けてもらおう、箱を開けた罰をな!
箱から再度黒い物体が溢れ、それを見計らいスピカは箱の蓋を力一杯閉じた。
箱はガタガタと揺れ、中で物体が暴れているのが分かる。
表情をしかめつつ、スピカは箱を押えて、鍵を穴に差し込む。
……こしゃくな、小娘がっ!
声を荒げた瞬間、箱が少し空いてしまい、隙間から小さな黒い物体の一部が飛び出し、スピカに襲い掛かってきた。
スピカは逃げようともせず、箱の鍵を閉める。これで被害は抑えられる。
黒い物体はスピカに直撃し、当たり所が悪かったらしく、スピカはそのまま気絶した。
倉庫は再び静寂に包まれた。

「……これが全てなの」
スピカは辛そうな表情で言った。
あの後は倉庫に来た両親に発見され、二人は半日以上眠りについたものの、その後は目を覚まして元の調子に戻った。
しかし倉庫に入ったことに対するお咎めを受け、二度と倉庫には入らなくなった。
近づくだけで、あの日の心の傷が蘇るから。
『そうだったのか』
スピカは父に頭を下げる。
「言いつけを破って本当にごめんなさい、もっと強くハンスを引きとめていれば、事が大きくならずに済んだと思っているの」
スピカは自責の念に駆られた。今でもハンスを止めていれば良かったと苛まれることがある。
双子は元気になったが、不幸が次々と襲い掛かった。
ハンスが大切にしていた小鳥が死に、父の仕事が上手くいかなくなり両親の間に大きな溝が出来て離婚。
双子は離れ離れになってしまった。
『スピカ、顔を上げなさい』
スピカはゆっくりと顔を動かし、父の顔を見る。
父は怒ってはいなかった。
『終わったことは仕方が無い、これからどうするかが大切だ。今から言うことを良く聞きなさい』
父は静かに言う。
スピカは黙って頷く。
父も分かりきっているのだ。過去の過ちを持ち出しても仕方がないことを。
『お前が開けた箱には、はるか昔に、人々に取り付いて不幸をもたらす化け物が封じられていた。
 その名は"デモート"お前とハンスに取り付いた物体はデモートの肉体なんだ。強い魔力を得る代わりに、使用者の心を除々に蝕んでゆく
 大量のゾンビを作れるのも、デモートの魔力があっでのことだな』
デモートの肉体をまともに浴びたハンスはその影響を大きく受けている。
どこかの本で、ゾンビを呼ぶ術についての記述を読んだことがあるが、魔力を膨大に使用するらしく、熟練した魔術士でも滅多にやらないらしい。
ハンスはいとも簡単にゾンビを作ったのだから、相当の魔力を持っていることになる。
「……わたし達の人生が滅茶苦茶になったのもデモートが原因なのね」
父は黙って頷く。
『奴は不幸を呼ぶ化け物だからな、取り付かれた人間の人生が真っ当だった者はいない』
スピカは胸に手を当て、視線を「じゃあ……わたしも?」と疑問をぶつけた。
デモートの肉体を少しでも浴びたのだから、その影響が出ると心配にもなる。
『ハンスほどではないが、多少の影響はあるな』
「そう……」
スピカは嬉しくは無かった。
ハンスを見ると、遠い先の自分があんな風に歪むのではないのかと不安でいられなくなる。
いや、そうなる前に、デモートをどうにかしなければならない。
「父さん……教えて、どうすればデモートを取り除けるの?」
スピカは肝心な部分を訊ねる。
箱の所有者だけあって、箱の中に詳しいと思った。ならば肉体を消す方法も知っているはずだ。
ハンスを救えるなら、何でもする覚悟はできている。世界中を回ってでもその方法を探す。
大切な部分を前にして、父の顔は明るくなかった。
「どうしたの? まさか無いなんてこと……」
スピカは最悪の想像をした。原因があるなら解決する方法もあると信じたい。
意を決し、父は口に出した。
『デモートは自身で力を発揮できない代わりに、人間に取り付いて人々に不幸をもたらした』
「え……?」
何を言っているのかと、スピカは思った。
『取り付いたら最後、奴の肉体を消すには……』
スピカは嫌な予感がして、顔色が青くなる。
聞きたく無いが、話を止めることはできなかった。
『取り付いた人間を消し去るんだ、複数に取り付いた場合は、大元になった人間を消し去る……つまりハンスを滅ぼすしかない
 そうすればお前に取り付いたデモートも消え去る』
衝撃的な事実に、スピカの足元がぐらつき、目の前にいる父が二重に見えた。
そんな酷い話があるなど信じられなかった。何でもやるという心構えだったが、父の発言によって全て消え去ってしまった。一緒に生を受けた弟を手にかけるなど出来ない。
例え父の命令でもだ。
スピカは父に詰め寄る。
「つまり……ハンスを死なせなければいけないの……?」
父は黙った。表情からして、スピカの発言が正解のようだ。
口を開かないが、父も辛そうである。
実の娘に、息子の命を奪えなど、悲し過ぎるからだ。
スピカは地面に手をつける。残酷な選択にスピカは呆然とするしかなかった。ハンスを死に追いやる事でしか解決できないのか?
お互いが生を掴むことができないのか
考えても、考えても答えは出ない。答えがまとまる事は無い。
それだけスピカにとっては、酷な試練だった。
「嫌だ……できないよ……」
スピカは項垂れた。
まともに呼吸ができず、頭がくらくらする。
そんな時だった。空間にひびが入り、割れた隙間から光が漏れる。
突然の異変に、スピカは戸惑った。
「なにこれ……」
『夢が終わるからだ』
父は辛い表情を崩さずに言った。スピカは父の姿が薄れていることに気付く。
「父さん……わたしはどうしたら良いの?」
スピカは父に問いかける。しかし父は答えない。
自分で答えを導けということか。
ひびが段々と増え、スピカの足元にも影響が出始める。スピカは片足だけで立っているのがやっとの状態になった。
「父さん!」
父の意見を聞くために、スピカはもう一度叫ぶ。
ハンスを手にかけろなど、納得できない。
すると、父はやっとのことで言葉を紡ぐ。スピカは注意深く口の動きを見た。
父が何を言いたいのか理解した途端に、スピカは白い空間に落下した。

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