「本当に有難う、あなたのお陰で助かったよ」
「いえ、僕は当然のことをしたまでですよ」
リンは少年・シュリの優しい笑顔につられ、少し笑った。
シュリはリンと同年代だが、敬語は崩さない。
「ほら、エルも、礼を言いなよ」
シュリの側にいる少女・エルカはむっとしたままそっぽを向いている。エルカはシュリの幼馴染で、シュリとの付き合いも長いのだ。
ちなみにシュリの両親は健在してるが、治療の妨げになるといけないからと、別の部屋にいる。エルカは心配だからとシュリの部屋にいるのだ。
エルカは天使が好きではないのだ。病気だったシュリの体を天使見習いであるリンが治したとしてもだ。
「礼なんて良いんです。シュリさんが元気になったならそれだけで十分です」
リンはきっぱり言った。エルカのように天使を良く思わない人間がいるというのも、学校で習っていたので承知の上だ。
外に出て、リンはシュリと彼の両親に見守られながら、白い羽根を広げた。
「それではお元気で、シュリさんの人生に幸福が満ちることを!」
リンはシュリに言って、空を飛んでいった。

それから約五年後……

「会いに来て……か」
リンは白い羽根をはばたかせて、リッヒト村の上空を飛んでいた。
五年前に昇給試験で訪れた場所である。職場にリン宛に手紙が来て「すぐにシュリに会いに来て」と書かれていた。宛名はエルカと記されている。
職場の先輩に相談するなり大丈夫だから行ってこいと背中を押され、休暇届を出して今に至る。
「えっと……シュリさんの家は」
リンは記憶を巡らせ、栗色の屋根の家だと思い出した。リンは記憶を頼りに、栗色の屋根の家を探した。
「変わってなくて良かった」
数分後、栗色の屋根の家を見つけ出し、リンは安堵した。栗色の屋根はここ以外にないからだ。
リンはゆっくりと地上に降り立った。 家の扉の前に進み、扉を静かに叩く。
「シュリさん……いますか?」
リンは声をかける。しばらくすると扉は荒々しく開く。
「来るのが遅い!」
リンの目の前には、シュリの幼馴染のエルカが怒りに満ちた表情で現れた。
「ごめんなさい、すぐに行くつもりでしたが……」
「言い訳は聞きたくない! 早くこっちに来て!」
リンが言うより先に、エルカがリンの服の裾を引いた。リンの手を掴まない所を見る限り、天使を良く思わないのは変わっていないようだ。

エルカの案内で、リンはシュリの部屋に通された。シュリはベッドで横になっていた。
「シュリ、ニセ天使を連れて来たわよ!」
エルカは刺々しく言った。シュリはこちらを向いた。シュリは五年前に会った時より痩せていて、肌色も悪い。
「エル、そんな言い方は駄目だよ」
シュリは五年前と変わらずエルカを愛称で呼んだ。
「だって本当のことじゃない! こいつが病気を完治させなかったからあんたが苦しんでんじゃん!」
エルカはリンを指差した。リンに対し敵意をむき出しにしている。
「……エル、悪いけど天使様と二人きりで話をさせてくれないかな」
「どうして?」
エルカは納得しなかった。
「大切なことだがら……お願い」
シュリは強く言った。
エルカは少し迷った様子だったが、やがて「分かったよ」と小さく呟く。
「ニセ天使、シュリに何かしたら承知しないからね!」
エルカはリンにきつい言葉を放ち、部屋から去っていった。
足音が遠退くのを見計らい、シュリがリンに頭を下げる。
「エルが迷惑をかけてごめんなさい、一ヶ月前にぼくの病気が再発してから、エルはあんな調子なんです」
「他の天使は来なかったんですか?」
「エルが皆追い返してしまいました。信用できないって言ってね」
「何で僕を呼んだんでしょう、エルカさんを見る限り僕を嫌っているようですけど……」
エルカの敵意ある目付きと言動を、リンは思い返した。
「天使様に責任を取らせるためでしょう、今度こそぼくの病気を完治させるために、だからぼくの家に来た天使に、天使様の名前を聞き出して来させたんです」
「なるほど……」
リンは言った。
「そう言えば、ご両親はどうしたんですか」
親は家の中をざっと見る限りいなかったので気になった。
「普段は家にいるんですけど、今日はエルが面倒を見てるので両親は外出しています」
シュリはそこで話を切った。
「天使様、ぼくの寿命を見てもらえませんか」
「……何でそんな事を言うんですか」
「ぼくには分かるんです。ぼくの命が長くないってことを」
シュリは重々しく語った。
「天使様には感謝してるんです。治った後は両親やエルとの時間を過ごせたり、友達を作って遊んだりできたんです。本当に幸せでした。また病気が再発したのは寿命が来たのかなと思ったんです」
「そんな言い方しないで下さい。病気なら癒しの呪文で治しますから」
癒しの呪文は怪我や病気を治す力がある。シュリの病気も五年前に癒しの呪文で治したので、今回も同じ手はずで問題ないはずだ。
しかしシュリは首を横に振る。
「いや……寿命が短かったら呪文はかけないで下さい。これ以上周りに迷惑をかけたくないんです」
シュリの言葉に、リンの気持ちは重くなった。五年前にシュリを治した時は彼から感謝されて、心の底から良かったと思えた。
しかし五年後の今は治せてもシュリの都合で治さなくて良いと言われる。
「……シュリさんの体を調べてみますね」
複雑な気持ちの中、リンは両手をシュリの体に当て、黄色の光を出した。
シュリの体は五年前の病気が確かに再発している。寿命も調べてみた。これは一人前の天使にしか使用できない呪文だ。癒しの呪文で治療すれば約五年は生きる。しかし治療をしなければあと二ヶ月で亡くなる。
……イヤな現実だった。寿命を調べる呪文はあまりに残酷なことをリンに突きつける。
どちらにせよ、シュリは治療を施してもそうでなくても長生きできない。
これもシュリに定められた運命かもしれないが、どう言って良いか迷った。
「その様子だと、どちらを選んだにせよぼくの寿命は短いんですね」
シュリがリンに訊ねてきた。リンはシュリの問いに答えられず、黙っていた。
「……ぼくはあなたを責めませんよ。人は誰だって寿命が来れば死ぬんですから、ぼくはたまたま短かった。それだけですよ」
シュリの優しい言い方が、リンの心を締め付ける。
二人の会話は、乱暴に扉を開く音で終わることとなった。エルカは怒りで目付きをつり上げていた。彼女の顔からしてシュリの話を聞いていたようだ。
エルカはリンに向かって疾駆し、右手でリンの頬を張った。
「あんた天使でしょ、寿命を伸ばす呪文くらい使えるでしょ!? シュリの体を治して寿命も何とかして!」
エルカはリンの胸ぐらを掴む。エルカに言葉を返せない。体は治せても寿命を伸ばすなんて都合の良い呪文は存在しないのだ。
エルカに叩かれた左頬が痛むが、それ以上にエルカの望みを叶えられないことに心が痛んだ。
「エル、天使様に当たるなよ、ぼくの寿命のことは仕方ないんだ」
シュリはエルカを宥めた。エルカは今度はシュリに掴みかかる。
「仕方なくなんかないわよ! あんたはまだ生きなきゃ駄目よ! あたしと世界を一緒に見て回る約束をまだ叶えてないのにっ!」
エルカは感情が高ぶって涙をこぼした。エルカを見てるとリンまで泣きたくなったが歯を食いしばってこらえた。リンはその場にいるのが辛くなり、挨拶をせずにシュリの家を出た。

天界に戻ったリンは一人で住んでいる家に帰り、ベッドの中に潜り込んだ。
「どうすれば……良かったんだろ……」
リンは囁いた。五年前には治した相手を、今はもう治せないというのは堪える。
心がとてつもなく苦しかった。シュリを無理にでも治せば良いと言われそうだがそれはできなかった。シュリの意見を無視しているからだ。
明日には仕事に出なければならないが、とてもそういう気分ではない。
扉を荒く叩く音がした。
「リン! いるか?」
聞き覚えのある声がした。リンは体をゆっくりと起こした。
「モルゲン……?」
リンは職場の同僚の名を口にした。沈んだ気持ちのまま、リンは素早く玄関に向かった。
扉を開くなり、見慣れた一人の男の顔があった。
「よう、大丈夫か、酒持ってきたぞ」
男ことモルゲンは口元を緩め、リンに大きな紙袋を見せた。

リンはモルゲンと共に晩酌をした。モルゲンはワインや酒のつまみを買ってきており、それらを飲食した。
モルゲンとは職場内でも仲が良く、月に二回くらいはリンの自宅で晩酌をする。モルゲンの部屋でやろうと提案してみるが、モルゲンいわく自分の部屋は汚いから無理だという。
「もっと飲めよ、おまえまだイケるだろ」
「いや……もう良いよ、明日仕事だし」
リンは顔を赤くして、ワインの入った瓶を手で押さえた。リンは成人しているので酒は飲める。
それでもワインを二杯飲んだだけで、酔いが回ってしまった。
対照的にモルゲンはまだ飲めるらしく、ワインをグラスに注いで飲んだ。モルゲンは酒に強い。
「それで……何しに来たんだよ」
リンはモルゲンに訊ねた。モルゲンはワインが入ったグラスをテーブルにそっと置く。
「話はムイネさんから聞いた。今日は地上で大変だったらしいな、だから心配になって来た」
モルゲンはリンの目を見据える。ムイネはリンの職場の先輩である。
リンが勤める職場に限ったことではないが、天使内で何かあればすぐに話が広まる。
「仕事抜きで行ったんだけどな……」
リンは残っているワインをちびちびと口に入れた。今日の件は忘れることは難しい。
「案の定、見に来て正解だったな、おまえ死にそうな顔してたからな」
「仕方……ないだろ」
リンはグラスを持ったまま顔をテーブルにつけた。
「割り切れとは言えねぇな、オレがリンだったら一週間寝込むな、仕事サボれるしラッキーだけどな」
モルゲンは楽観的なことを口走る。
「モルゲンみたいに気楽に考えたいよ」
「けどよ、やってられねぇよな、感謝されるためにやったのにな」
モルゲンの声色は真剣になった。
「こればっかりはリンのせいじゃねぇよ、気ぃ落とすなよ、当たった相手がたまたま悪かったんだ」
モルゲンの言葉はリンの心に染み込んできた。心の締め付けが少しだけ緩んだ気がした。
「楽しんで忘れようぜ! やっぱり飲めよ! アルコールは辛いことを紛らわすためにある!」
「……そこまで言うなら」
リンは顔を上げて、ワイン入りのグラスを掲げる。飲んでなければ自分の中にあるしがらみが消えない気がしたからだ。
「そう来なくっちゃな!」
モルゲンはノリノリでワインをグラスに注いだ。リンはグラスのワインを少しずつ胃の中に流し込みつつ、つまみも口に放り込む。
「いい飲みっぷりだな! もう少しいけるか?」
「うん……」
リンは力なく言った。

リンは四杯目まで飲んだ所で意識を失った。リンはは元々酒には強くないので、かなり飲んだ方だと言える。
リンは夢を見た。シュリとエルカが笑い合い、一緒に草原を走り回っている。という内容だ。自分の想像が作り出した産物だろうが、二人の明るい顔にリンの内面は様々な感情が入り交じり、何とも言えない気持ちに気持ちになった。 シュリの明るい顔はあと少しで永遠に消える。他の天使がシュリの家に来てもシュリが治療を拒否するか、エルカが天使を追い返すだろう。
天使は基本的に人間の意思をもするので、余程のことがない限りは無理に治療はしないのだ。
夢は途中で切れた。何故なら強烈な頭痛がリンに襲い掛かってきたからだ。
「……っ」
リンは目を開いた。ベッドにいた。リンは頭を押さえつつ、起き上がった。
「飲み過ぎたな……」
完全な二日酔いだと自覚した。ベッドの側ではモルゲンがいびきをかいで熟睡している。リンをベッドに運び、そのまま眠ったのだろう。
リンは羽根をそっと動かして、モルゲンの体を通り、医療箱のあるタンスに移動した。医療箱を引き出して、中から二日酔いに効く薬を飲み込んだ。
水と一緒に本当なら飲まないといけないが、生唾でどうにか間に合った。癒しの呪文は自分にはかけられないため、一人暮らしの場合二日酔いや風邪は薬で対処するしかないのだ。
リンは「ふぅ……」とため息をついて、その場に座り込む。
「……自分のことは自分で決めるしかないんだよな、明日死ぬと分かっていてもな」
夢や二日酔いも後押しして、リンは暗い気持ちになった。モルゲンが励ましてくれたのに、彼には申し訳ないと感じた。
時刻は午前三時、無理にでも寝た方が良いと思った。とは言え薬が効くまでは動かずにじっとしていた。しばらくして頭痛がおさまってきたので、リンは羽根を静かに動かして、ベッドに着いた。
「すまないな、モルゲン」
リンは呪文で毛布を出し、モルゲンの体にかけた。リンはベッドに横たわる。
リンは目を瞑らず、思考を巡らせて時間を過ごした。


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