私が入院してから約三日目のことである。
足りない物を買い、病室に戻ろうとした矢先だった。
ナースステーションに一人の男性が立っているのが見える。
その姿に、私の背筋は凍りつく、何故なら禊ヶ丘(みそぎがおか)先生だったからだ。
恐ろしくなって、私は足音を立てずに廊下の影に隠れた。
……何であの人がいるの?

私は確かに藍川(あいかわ)先生にお願いしたはずなのに、どこかで漏れた?
いや、私のいる病棟に禊ヶ丘先生が見舞う患者がいたのかもしれない。

 

それでも今の私にはあの人を見るだけで心の中にドロドロとした黒い感情が渦巻く。
私が男性に触れられただけで取り乱すようになったのは、禊ヶ丘先生が原因なのだ。
思い出すだけでおぞましい記憶が私の中で刻まれている。

 

記憶を失う前から私は男性に触れられるだけでパニックになり、気絶してしまう事があった。
そのため異性の恋愛や、学園祭でフォークダンスをすることが出来なくなり、社会人になってからも異性の上司と接する時や、握手を求められた時は過酷だった。

喋る分には問題無いが、触れられるのが駄目だ。


襲われると思うから。
襲うという単語がきっかけで、私が最も呼び起こしたくない場面が頭をよぎり、猛烈な吐き気がこみ上げた。

 

私は口元を押さえ、女子トイレに駆け込んで吐いた。
私の中にある不快感を全て出すよう……

「はあっ……はあっ……」
吐き気がおさまり、私は何度も深呼吸をした。
「こんな姿見せられない……」
私は教え子達の姿を思い浮かべた。
弱りきった私を見たら動揺する。大人の不安は子供にも伝わるからだ。
特に星野さんは心配するだろうな。彼女の性格からして、授業に集中できなくなるほどに不安がるだろう。
生徒のことを考えるのは職業柄だろうか、良いのか悪いのか。
考えるのはよそう、子供達のことも大切だが、今は自分のことを何とかしないと。
薄暗くて寒いトイレに、私は身震いがして、思わず両腕を抱き締めた。
それでも禊ヶ丘先生がいるナースステーションに戻るよりは遥かに落ち着く。
「まだいるのかな……」
私は呟く。
私が知ってる限りでは、禊ヶ丘先生は粘着質だった気がする。
実験してる人は大抵はそうだ。
なので、待っている可能性は非常に高い。
「どうしようか……」
私は頭に手を当てて悩んだ。
しばらく思考を巡らせると、一つの案が浮かぶ。
相手が帰るまで待つのも手だ。面会時間は二十時までだから時間が来るまで別の場所にいればいい。
二十時以降は家族以外には許可されていないからだ。
消極的だが、現段階では最良の選択だ。
このトイレで待とうかと思ったが寒いので時間調整には向いてない。
どこがいいか、外庭や屋上はトイレと同じ理由で駄目、廊下は……きっと看護師さんに何か言われる。
一階の受付付近にある待合室はどうだろうか?
あそこなら人も多いし、安全だ。
危険を承知の上で、私は移動しようと決めた。
私はトイレの出口から外を覗き、人気がないことを確認し廊下を歩いた。
下に続く階段を見つけ、踏み外さないように私は降りた。
本当ならエレベーターを使いたいが二人きりになったら逃げ場が無いので、使わないことに決めた。


「運動不足かしら……足が痛いわ」
息を切らしてながらも、どうにか一階に降りた。
五階から一階までは長く感じられた。
体育の教師をしている王(おう)先生や黒雛(くろびな)先生なら容易そうだが、体力不足が身に染みる。
「退院したら運動を始めようかな」
気持ちを切り替えて、私は前に進む。
一階の受付は想像通り賑やかだった。大勢の人間が行き交っている。
体調不良を感じて来た人や、怪我の治療経過の診察のために来た人など様々だ。
「健康って大切ね」
私は痛感した。
私が長い椅子の近くまで来た時だった。突然人々の姿が空気のように消えてしまった。
あり得ない展開に私は目を大きく見開く。
私は辺りを見回したが、人の気配が微塵に感じられない。
嫌な予感がする。
私が野々村くんと逃げ回っていた時と似てるからだ。人の気配が消えて、取り残される私……
こんな事をするのはたった一人しかいない。
緊張のため両手には汗が流れ、私は生唾を飲み込む。
「お前にとっちゃあ久しぶりだよなぁ? このシチュはよぉ」
声と共に、私の背後から足音がする。紛れもなく禊ヶ丘先生だ。
私は振り向けない。最も見たくない顔だからだ。
それでも何も言わない訳にもいかず、私は動かずに口を開いた。
「……これは何の真似ですか? 消した人は元に戻るんですよね?」
「んな心配しなくても一時間すりゃあ元に戻るぜぇ、俺はお前と話をしてぇだけだ」
やっぱり十六年前と同じだ
「やり過ぎでは無いのですか、私と話がしたいだけなら手のこんだ真似をしなくてもいいと思いませんか?」
「新しい発明を試すためだ。証人に一人欲しかっただけだぜぇ」
嘘くさい。
禊ヶ丘先生の話は信用できない。
「どこで私が病院にいることを仕入れたんですか?」
私は一番聞きたいことを訊ねる。
禊ヶ丘先生に知らせないでと藍川先生や他の先生にお願いしたのに情報が漏れるのはおかしい。
あの場にいた先生は約束を守るからだ。
「お前も酷ぇ奴だよな、俺だけに知らせねぇなんてよ、お前とは昔からの付き合いだろうよぉ」
露骨にまで不機嫌そうだった。
やった本人は忘れているようだが、やられた私は決して忘れない。
「質問に答えて下さい」
私は声を抑えて言った。
「文句があるなら藍川に言えよぉ、あいつのスマホはセキュリティがスッカスカだったからよ、通話内容がだだっ漏れだっだぜぇ」
「つまり盗聴したんですね」
私は怒り混じりに言った。
人間観察が好きな禊ヶ丘先生が考えそうなことだ。お得意の発明で聞いたんだ。
禊ヶ丘先生がしていることは立派な犯罪だ。許されることではない。
「面白ぇぜ、人の話ってのはよ、聞いてるだけで飽きねぇ」
回りくどいが、私の説は当たりのようだ。
「いい加減こっち向けよ、輝宮ぁ、人の話は顔見ながらしろと言われなかったかぁ?」
「貴方とお話することなどありません、申し訳ないのですが帰って下さい」
私は毅然とした態度をとった。
私の精神状態からして、これ以上禊ヶ丘先生とは関わりたくない。顔を見るだけで吐くほど劣悪だ。
声を聞くだけでも寒気がする。
禊ヶ丘先生から離れたくて、私は早足で歩いた。
「お前には無くても、俺にはあるんだぁ」
禊ヶ丘先生がそう言った直後だった。急に胸が苦しくなり、私はその場に倒れこむ。
まるで心臓を素手で鷲掴みされているようだった。
あまりの苦しさに身動きがとれない。 
「あっ……くっ……」
声が出ない。
「体に仕組んだ逃走防止のチップは機能してるみてぇだな」
私が苦痛に耐える中、禊ヶ丘先生は延々と言う。
私の体に何かしたことが伺えるが、今はそんな事には構ってはいられない。
襲いかかる苦しみの波は私の意識を飛ばしかねないほどだった。歯を食いしばって我慢しているものの、長く持つか怪しい所だ。
これなら母からの仕打ちの方がマシに感じる。
それでも禊ヶ丘先生の方を見られなかった。見たら私は精神状態を保てない。
「強情な奴だなお前もよぉ、そんなに俺が嫌かぁ?」
声には出せないが嫌に決まってる。
禊ヶ丘先生が原因で私は男性に触れられるのが怖くなったからだ。できることなら責任を取ってもらいたい。
ここで禊ヶ丘先生の顔を見るくらいなら自害する。
せめてもの抵抗として私は目を閉じた。これなら何も見えない。
と、その時だった。
外から音が響き、禊ヶ丘先生の足音が止まる。
禊ヶ丘先生は「ちっ」と舌打ちをした。
「面倒なのが来やがったな」
禊ヶ丘先生が言うと、苦しみは嘘のように消え去った。
目を閉じたまま私は口呼吸をした。
「また日を改めて来るぜぇ、今度は俺の顔を見られるようにしろよぉ」
その言葉を最後に禊ヶ丘先生の気配は足音と共に無くなった。
禊ヶ丘先生と入れ替わる形で、二人分の足音がこちらに向かってきた。
「まりあ!」
この声はレア先生だ。私は少しだけ目を開ける。
心配そうな表情を浮かべたレア先生と王先生が私を見ている。
「大丈夫か?」
レア先生の問いかけに、私は軽く首を縦に振る。
話すのも嫌になるほど疲れていた。
見覚えのある顔に安心し、私は意識を手放した。

 

次に目を覚ました時には、私の前にはレア先生がいた。
「気がついたか!」
レア先生は声は震えていた。
私は頭をレア先生の方に動かした。
「ここは……どこですか?」
「アンタの病室だよ、アンタ一日中ずっと眠りっぱなしだったからすげー心配したんだぞ」
レア先生の話に私は戸惑った。一日中眠るなんて経験は無いからだ。
「アンタが受付前で倒れてんのを見てびっくりしたよ、気を失ったアンタを王が担いで、医師か看護師がいないか探したけど、どの階探してもいないし、滅茶苦茶焦ったよ」
レア先生は不安混じりに言った。
普通は医師、看護師がいないなどあり得ない。
レア先生には言う必要がある。
「人は時間が経ったら出てきませんでしたか?」
私は問いかけた。するとレア先生は唖然とした表情を浮かべる。
「そうなんだよ、いきなり出てきてさ、王もアタシもびっくりしたんだよ」
「やっぱり……」
「やっぱりって、アンタ、何か知ってんの?」
レア先生は興味津々に訊ねてきた。
「実は……」
私は病院で起きたことを話した。
禊ヶ丘先生が現れたこと、呼んでない禊ヶ丘先生が来た理由
そんな彼が人を消失させたこと、私が倒れる原因であることも。
話を聞き終えるとレア先生は苦虫を噛んだ顔になった。
「……マジなの?」
「本当です」
「アイツは元から可笑しい奴だと思ってたけど、そこまでするなんてね」
レア先生は視線を右に反らした。
禊ヶ丘先生は生徒だけでなく、私たち教師の間でも評判は良くない。
「アンタと二人きりにしたのも昔からの縁ってヤツ? にしてもやり過ぎじゃねー?」
レア先生の意見は最もである。
禊ヶ丘先生は常識が通じない人なので、私たちが考えられないことでも平気でやる。
人を消すなど朝飯前なのだ。
「まあ、アイツのことは置いといて、まずアンタの体の方が心配だ」
レア先生は話を切り替えた。
「もう胸は痛くないか?」
「平気です」
あの時の苦しみは、嘘のように何ともない。
「アイツもひでーことするよな、体に埋め込まれたのって手術か何かでとれないか?」
「それはやめた方がいいと思うんです。あの人のことですから、何か仕掛けているかも」
禊ヶ丘先生のことだ。下手に取ろうとするだけで、爆発するとかあり得る。
「アンタはそれでいいのかよ、アタシだったらアイツを脅迫してでも取ってもらうけどな」
レア先生は強気に語る。
「気持ちだけとっておきます」
私の言葉に、レア先生はむすっとしていた。
レア先生に私の考えは理解できないだろうが、禊ヶ丘先生の怖さを知ってるからこそ、私はあえてとらない。
触らぬ神にたたりなし、と言った所だ。
「それより王先生は?」
気になって私は聞いた。
レア先生と一緒にいたはずだが。
「王なら買い出しに行ったよ、もうじき帰って来るよ」
レア先生が言った直後だった。扉が開き、大きな袋を持った王先生が現れた。
「たっだいまー!」
王先生は大声を出し、レア先生はすかさず王先生の横に来て肘をつく。
「声がでかいっての!」
「あっ、悪い悪い!」
レア先生の注意に、王先生は謝った。
相変わらずの王先生に私はつい笑ってしまった。
「輝宮先生、起きたんすか?」
笑い声に気付き王先生が私に近づく。
「さっき目を覚ましたんだよ、な?」
「ええ……」
レア先生に聞かれて、私は答えた。
「感謝しなよ~アンタが気絶した時に王がお姫様だっこして運んだんだから~」
「ばっ、何言ってんだよ!」
レア先生のからかいに、王先生は頬を赤くする。
「お姫様だっこじゃなくでおんぶだったろ!」
「どっちにしろまりあは美味しい役だよね~」
二人の話からして、私は王先生に運ばれたのだ。
「王先生が私を?」
「そうだよ、アタシじゃ力不足だからね」
レア先生は悪戯な笑みを浮かべる。
王先生は耳まで赤くなり、頬をかいだ。
「王先生……有り難うございます。レア先生も」
私は二人に感謝した。
もし二人があの時来なかったら、状況は悪化していた。
「早く元気になれよ、アンタがそんな状態じゃ心配だからな」
「はい……」
「輝宮先生が元気になれるように、こんなの買いました!」
王先生は袋を探ると、栄養ドリンクの箱を複数出した。
これだけあれば、栄養ドリンクには当分困らない。
「俺が愛用しているドリンクですよ、これを飲めば病気なんて飛んで行きますよ!」
「喜んで頂きます」
私は王先生の好意を受け入れた。

ほんの少しの入院生活は色々とあり、退屈しなかった。

私が禊ヶ丘先生の顔をまともに見られるようになるのに時間がかかるのは
また別の話

 

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