瞳を開くとセリアは花畑に立っていた。
 青空に純白の雲が流れ、白い蝶々が舞い、甘い香りが鼻腔をつく。
 「ここは……?」
 セリアは辺りを見回した。ここまで美しい花畑は記憶にない。
 セリアは両脇にある花を眺めながらゆっくりと歩き始めた。前に進む一本道には花が一本も無いが、細かいことは気にならなかった。
 花畑は母が亡くなってからは見ていない、例え見たとしても毎日の仕打ちにより、心に余裕が持てず、花を見て綺麗だと言っていられなかった。
 「こんな綺麗な花、久しぶりね」
 セリアは無意識のうちに、口元を緩める。美しい光景に心が潤ったのだ。
 これだけ咲いているのだから、一本摘んでも誰にも文句は言われないだろう。そう考え、セリアは身を屈め、際立って大きなガーベラにそっと手を伸ばす。
 と、その時だった。
 「駄目よ! 花に触れたら死んでしまうわ!」
 突如の忠告にセリアの体が硬直する。
 いや、正確には声が手を止めたと言っても良い。
 セリアは後ろを向くと、いつの間にか亡き母が立っていた。痩せてはいたが、セリアと同じ髪と目の色は変わらなかった。
 しかし、セリアの母はとっくに他界しており、こうしてセリアの前に現れるはずがない。これは一体どういうことなのだろうか? 
 聞きたいことが沢山頭を渦巻く中、セリアは背筋を真っ直ぐ伸ばし、母と向き合う。
 「母さん、どうしてここにいるの?」
 「ここは天国、あなたは川に落ちて死のうとしたのよ」
 母に言われ、セリアの記憶から忌々しい記憶が蘇る。
 親友のチロを失い、生きる気力も消え、自らの命を絶ったのだ。
 死んだ母親から天国と聞き、セリアはようやく死ねたのだと嬉しく思えた。元に今は亡き母が立っていることが何よりもの証拠。
 だが、引っかかることがあったので、セリアは疑問を解消するべく母に訊ねる。
 「さっき母さんが花に触れると死んでしまうって言ってたけど、私はまだ完全に死んでいないの?」
 「そうよ、あなたは通りすがりの人に救助され、今はまだ死を迎えたわけではない、簡単に言ってしまえば生死の境をさまよっているようなものよ
 花や母さんのような死の世界に関するものに触れると、あなたは完全に死ぬわ」
 聞いてセリアは愕然とした。まだ自分は生き伸びている。
 おまけに生死を行き来している。
 生き延びれば、再び地獄の日々が待っている。元に村人達からあれだけ虐げられてきたのだから。
 「……私死にたくて、自らの命を絶ったの、お母さんや親友まで失って生きたくないよ」
 セリアは両手で自分の体を抱きしめて、身を縮めた。
 瞳からは涙がとめどなく零れ落ちる。
 「もう嫌だったの、何もやっていないのに殴られて蹴られて……嫌な言葉を沢山聞いて、私なんか誰からも必要とされてないんだって、もし生まれ変わるなら空気になりたいって思ったの」
 溜まりに溜まった思いを、セリアは母親に打ち明ける。
 苦痛の人生など続けたくない、生きていて意味がないのだから、楽な道に進んだのだ。一人ほど、この世の中で恐ろしいものはない。
 セリアは視線を近くにある花に向けた。これにさえ触れられれば母親と一緒にいられる。触りたいという強い衝動に駆られた。
 「もう生きたくないの! 生きてたって一つも良いこと無いんだもの! もう良いでしょ!? 私はお母さんの側にいたいの!」
 「それは駄目よ」
 母はしっかりとした口調で言った。セリアは涙にぬれた顔で、母を見上げる。
 「辛いでしょうけど、あなたはしっかり生きて欲しいの、村人達みたいにあなたを虐げる人ばかりが全てでは無いわ」
 母は穏やかに微笑む。セリアの傷を癒すように。
 「川に流れていたあなたを助けてくれた人がいるのよ、自分の服が濡れてまでも、あなたを放っておけない一心でね」
 母が人差し指をセリアの額に向けると、不思議な事が起きた。
 頭の中で、若い男が川からセリアの体を引っ張り上げ、頬を叩き、セリアに呼びかける映像が流れ込んだのだ。
 男は真剣にセリアの事を心配している様子だった。
 「私のために?」
 映像が途切れてからセリアが訊ねると、母は静かに頷く。
 「この人は村人と違って心が綺麗な人よ、信じても大丈夫、あなたが力を持っていることも、別に悪い事だと思わないわ」
 「……本当に? もしまた酷い事をされたら嫌だよ」
 セリアは不安で声が震える。
 前にも一度助けたふりをして、母親の思い出の品を壊された苦い経験があるからだ。
 「お母さんはあなたにウソをついた事がある?」
 「ない……けど……」
 母は一度もウソをついた事は無い、セリアを助けてくれた男を信じても良さそうだが、受けた仕打ちによって、心には強い不信感が残っている。
 信じろといわれても、簡単にできる事ではない。
 「人を信じるのが怖いの……もう裏切られたりするのが嫌だから」
 「焦らなくていいの、最初は警戒したり怖がったりしても、自分のペースで人を信じられるようになればいいのよ、難しい課題でしょうけどあなたになら出来るわ」
 「本当にいいの?」
 セリアは涙を拭い、母に訊ねる。
 母は優しく「いいのよ」と言った。セリアの心は少しだが希望の光が差した気がした。
 「あなたには幸せになって欲しいの、人生は上下の坂道を行くようなものだから色々とあるわ……だけど自ら死を選ぶような真似だけはしないで、お母さんはあなたが死のうとして、とても悲しかった」
 「だけど」の部分から母は表情を曇ってゆき、セリアの心は刺さるように痛んだ。
 忘れていたわけではない、母は自分に「生きて」と言い残し、この世を去った事を。
 しかし。母と同じくらいに大切にしていたチロを失った事により、心は悲しみに落ち自らの命を絶ったのだ。
 だが、チロもセリアに生きて欲しいと思っているのではないのか?
 チロはずっとセリアにだけになつき、セリアの側から離れる事は無かった。食事の時も、眠る時も、遊ぶ時も常に一緒だった。チロもセリアが好きだったに違いない、もしも飼い主のセリアが死んだと分かれば悲しむだろう。
 言葉は離せなくても、動物にも人間と同じように心があるのだから。
 母、チロ、助けてくれた人の気持ちを考えると、セリアの心は震えた。
 「ごめんなさい……私……二度と自殺しないから……」
 セリアは謝罪した。心の隅では死を願っている。誰かを信じることも難しいが、母の励ましにより、再び生きてみようと思った。
  ……もう自殺なんてやめよう、お母さんを悲しませたくない。死んだチロも私に生きることを望んでいるわ。
 突然、ふわりと体が浮かび、セリアは母を見下ろす形となった。
 「何……これ」
 「あなたが生きる希望を持ったから生の世界に戻るのよ」
 セリアは目に見えない力によって、花畑から遠ざかっていった。セリアは小さくなってゆく母に感謝の言葉を述べる。
 「お母さんありがとう! 私しっかり生きるよ! どんな事があっても決して挫けないから!」
 セリアは大きく手を振った。母に届くと信じて。

 ……簡単でなくても、私なりにやろう 
 それがお母さんやチロの願いだから。

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