「望結(みゆ)、すまない! 別れてくれ!」
私の目の前で婚約者の飛翔が土下座をして謝っている。
「何でそんな事を急に言うの?」
私の声は自分でも分かるくらいに苛ついていた。それもそのはずだ。私は飛翔(ひしょう)と結婚する予定だからだ。三年の同棲生活を経てだ。
私の両親や兄弟、友人にも報告を済ませた。
しかし、飛翔の一言が私の結婚への希望を砕こうとしていた。
「実はな……」
飛翔は重々しく口を開くと、信じられない事を語り始めた。飛翔が勤めている会社の後輩がいて、その子は飛翔のことが好きになったという。
飛翔もその子と話す内に好意を抱くようになり、私にバレないようにしつつ付き合うようになったらしい。
飛翔は快活な気質で、かつ女子からも好かれる性格だ。私も飛翔のそういった所が好きになり、彼の恋人となった。後輩の子も飛翔の性格に惹かれたのだろう。
私が想像を巡らせていると、更に最悪なことが彼の口から出た。何とその子を妊娠させてしまい、相手の父親は責任を取れと立腹しているという。
これを聞いて私の怒りにも拍車がかかる。
「あんた……馬鹿なの?」
「俺もそれについては悪いと思っている……」
私は声を震わせて飛翔に訊くと、飛翔は情けないほどに細い声を出した。
相手の父親の言い分が痛いほどに分かる。
飛翔は時々浮気はしてたが、その度に私は許した。
彼の悪い部分に目を瞑れば、飛翔は私に優しく、体調が良くない時は私に気遣って家事をしてくれたからだ。加えて結婚に向けて好きな趣味を我慢してお金を貯めておいてくれていたからだ。
しかし飛翔がした不貞行為は、飛翔の長所を黒く塗りつぶすのに十分だった。
もうこんな奴信じられない。結婚はできない。私の中にあった希望は砕けたからだ。
「あんたみたいなゲス野郎こっちから別れてやる! 慰謝料もいらないわ!」
私の怒鳴り声が、三年間住んでいたアパートのリビングに響き渡る。
楽しかったことも、悲しかったこともあったこのアパートには思い入れがあったのに、目の前にいるこの男のせいで滅茶苦茶にされた気分だ。
私は自室に戻り、手早く荷物をまとめると、 飛翔に一言も言わずに家を出た。

「……色々迷惑かけて、ごめんね」
私は両親に謝罪した。
「もう気にするな、喜多くんは最初に会った時からお父さんは好かなかったからな」
父は言うとお茶を啜った。喜多とは飛翔の苗字である。
父がそう言うのも無理はなかった。飛翔は私の両親の挨拶をする時に、服装に関してマナー違反なことをしたからだ。私もフォローはしたが、飛翔の印象は父にとって良くなかった。
「あなた。そんな事を言ったら駄目よ、望結は今大事な時期なんだから」
母はやんわりと言った。
神様はとことん私に意地悪をしたいらしく、私は妊娠していることが婚約を解消してから判明した。最初は精神的なショックで生理が止まったのかと思ったが、体のだるさや、吐き気といった症状が出始め、今日母と一緒に病院に行き、診察してもらった所妊娠していることが分かった。今は妊娠二ヶ月でつわりがきつい。 ご飯の匂いですら吐き気がする。
そのため夕食を食べた後に両親と話をしているのだ。
両親へ詫びたのは、婚約解消のこと(家に帰ってきた時も一度は謝った)もそうだが、妊娠のこともある。
飛翔と暮らしていたアパートを出てから二週間経つが、あれ以来飛翔とは連絡はしていない。飛翔の両親が家に訪れて謝罪に来た。飛翔の両親には悪いが、私の中にあるわだかまりが消えることはない。
もう飛翔との関係は終わったし、修復させる気はない。
「お腹にいるのは喜多くんの子なんだな?」
「そうよ」
父に聞かれ、私は短く答えた。私は飛翔のように浮気する勇気はない。
「産むのか?」
父の質問に、私は黙って首を縦に振る。
中絶というのも考えたが、子に罪はないと思い、産もう決めた。例え別れた相手の子だとしてもだ。
お金の面では私が働いているので、両親に迷惑をかけることはしないつもりだ。
「分かった。望結が決めたならそうすると良い、お腹の子を大切にするんだぞ」
父は優しい言葉をかけてくれた。何だかんだで私の気持ちを尊重してくれるのだ。
「有難う」
私は言った。私のお腹はまだ膨らんでいないが、検査で見た時には確かに命は宿っていた。なので守っていきたい。
私と両親が話している時だった。スマホの着信音が響いた。両親に断りを入れて見てみると妹の光希(みつき)からだ。
『お母さんから聞いたよ、お姉ちゃん赤ちゃんができたんだって? おめでとう!』
光希の文面は明るかった。光希には二歳の子供がいるのだ。
『私からアドバイスするけど、食べる物には気を付けてね、刺身や生肉は食中毒があるから絶対食べちゃ駄目だよ、お姉ちゃんは刺身好きだけど赤ちゃんが産まれるまで我慢して、あとアルコールも駄目。カフェインは摂りすぎに注意して。
重たい物を持ったりしたら駄目だからね、走ったりするのも同じだよ、会社の人にもちゃんと言ってね、具合が悪くなったら大変だから、二ヶ月目が大事な時だからね。分からないことがあったらお母さんや私にも聞いてね』
「光希……」
私のことを思う光希の気持ちが嬉しかった。
婚約者を最悪な形で失ったけど、私には家族という大切な絆があると確信できた。

どんな困難があっても乗り越えよう、私はそう決意した。



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