風紀委員の弱点 作者:ねる

慧に神社の壁に叩きつけられ、明美の背中にはじんわりと痛みが走る。
立ち上がる暇も無く、明美は慧に胸倉を掴まれる。
「虚首だな、さっきの煙玉は、アイツならやりかねねぇな」
慧は左手を伸ばす。
「まだあるなら出せ」
きつい命令口調に、渋々だが明美はポケットにある二つの煙玉を慧に渡した。
慧は煙玉をジッと眺めた。
「ふざけやがって」
そう呟くと、慧は煙玉を投げ捨てる。
「用事は終わったんじゃ無かったの?」
明美は怒り交じりに訊ねる。
弱点を教えた犯人が言流だということを明美から聞きだしたのだから、彼の気は済んだはずだ。
長い説教を除けば、明美を執拗に探す理由はない。
慧の形相はおぞましく、いつ殴られても可笑しくない。
「テメエはオレの弱点を知った。だからオレもテメエの弱点を虚首から聞いた」
嫌な予感がした。
しかし明美は納得がいかない。慧の弱点を知り利用した自分も悪いが、何故自分の弱点を慧に握られるか分からない。
「何でそんなことをするの?」
「……気にいらねぇからだよ、年下のクセしてオレに立てつくからだ」
刺々しく慧が言った次の瞬間、明美の前には一本のビニール紐が現れた。
見た途端に、明美の頬が引きつり、全身が震えるのが自分でも分かる。
明美の脳内で、忘れることのできない忌まわしい記憶がじわじわと浸透していった。

明美が中学二年の夏休みの最中だった。
朝食の時間になっても起きてこない妹のことが気になり、明美は妹の部屋へと向かった。
単なる寝坊だったら良いが、久々にみた妹の顔は元気が無く気がかりだった。
訊ねても、そっけない返事で、姉の明美に本心を打ち明けてくれず、明美は歯痒かった。
明美は妹の部屋の扉を何度か叩き、声をかけたものの妹からの返答が無い。
もしかしたら体調不良で寝込んでいて、声を出したくても出せないのかもしれない、前にも一度妹の部屋に呼びに行った時には熱にうなされていた事があった。
明美は妹に一言謝り、ドアノブに手を掛け、扉を静かに開く。
妹がベッドの中でうずくまっていると思って……
だが、明美の目の前に広がっていたのは、一生忘れられない光景だった。
妹はビニール紐で首を吊って、宙にぶら下がっていた。
明美の足元はふらつき、立つのもままならない、瞳からは涙が溢れ妹の姿がぼやけて見える。
それでも妹の変わり果てた姿を消してはくれない。

「いやあっ! やめてえっ!」
大声を発し、明美は慧を力一杯突き飛ばした。
歯をガチガチと言わせ、明美はその場でうずくまる。
明美は妹を意識不明に追い込んだ元凶のビニール紐に対し、強い恐怖心を抱くようになった。
「お願い……やめて……」
声を震わせて、明美は言った。
額からは冷や汗が流れ、呼吸も乱れる。
思い出したくない記憶を引きずり出され、頭の中が混乱した。
いつもの明美なら、危険人物である慧を突き飛ばすなどしない。だが慧がビニール紐を持っていたため、妹の自殺現場を目撃した時の心の傷が蘇り、普通では考えられない行動を取ったのである。
ビニール紐に恐怖を持つようになってから、様々な面で支障が出るようになった。
月に三回ほど寮で新聞の収集を手伝わなければならないが、その際にビニール紐を使用しなければならず、明美は新聞を纏める役に徹し、紐で縛るのは雪乃に頼まざる得なかった。
寮の先輩である茄奈が心配になって声を掛けてきたものの、適当に誤魔化していた。
ビニール紐が怖いなど、恥ずかしくて言えない。
明美が一つの仕事しかしないことを理由に
『明美、どうして皆と同じ仕事をしないのだ!』
などとロリも色々ときつい言葉を投げかけてきたが、聞き流した。
しかし慧は明美の内面など知る由も無く、明美の間近にある壁を強く蹴った。
「いいザマだな、偉そうにしている時とは違って腰抜けなんだな」
明美は答えられなかった。
恐怖心が邪魔して、慧に反論できない状態。
弱々しい明美にイラついた慧は我慢できず、明美の首を右手で掴み地面に叩きつけた。
明美は悲鳴を上げる暇が無かった。
「テメエにはムカついていたからな、オレに頭を下げるなら許してやってもいいぜ」
明美は慧から視線を反らし、口を開かない。
「おい、黙ってねぇで答えろよ!」
荒々しい言葉を口走り、同時に明美の左頬が鳴った。
痛みが頬を走り、明美は表情を歪めて、そっと手を当てる。
……また私……ぶたれたのね。
過去に対する恐怖は消えたわけではないが、慧が与えた痛手により、明美の気持ちの軸は今に戻された。
相変わらず何も喋らない明美に苛立った慧は、明美の首を強く締め付ける。
首への圧迫感に、明美は苦痛の表情を浮かべた。慧は小柄な体にも関わらず力は強い。
「ぐっ……」
明美は声が出せず、全身をバタバタと動かした。
このままでは窒息してしまう。
「や……やめ……て……」
「あ? それが年上に対しての言葉か?」
慧が食って掛かるように言った。
本当ならやりたく無いが、命の危険にさらされている以上は、止む得ない。
「やめて……くださ……い」
消え入りそうな声で明美は嘆願する。
慧は満足げな笑みを浮かべて明美を解放し、明美は喉を抑えて咳き込んだ。
「へっ、風紀委員の肩書きも大したこと無かったな」
慧は明美を馬鹿にしていた。
明美の中ではふつふつと悔しさが込み上げる。不良に謝罪の言葉を口走ったことが。
妹を失った時の痛み、そして慧から与えられた痛み。それらが明美の中でじっくりと一つになっていった。
思い出していた。妹が自殺するに至った原因を。
それは慧のような不良にいじめられていたことだ。暴力は勿論だが、お金を脅し取っていたのだ。もし一定の金額を持ってこなければ問答無用に殴られていた。
明美が風紀委員を設立したのも、規律を守らない人間を注意するのは勿論だが、立場の弱い人を守りたいという思いがあった。
妹のような自殺者を出さないためにも……
皮肉にもビニール紐がきっかけで、自分の肩書きがある理由を思い出すことになった。
明美は深く深呼吸をし、おぼつかない足取りで立ち上がる。
明美の瞳には揺らぎが無かった。
「……あなたはやっぱり可哀想な人だわ」
明美は慧を見据える。
先ほどの弱々しい様子とは打って変わり、本調子に戻っていた。
「人を傷付けて……恐怖に陥れて何が楽しいの? そんな事に力を使うなんて弱い人間がすることよ、あなたは自分で弱いって人に言いふらしているだけだわ」
「テメっ……」
慧は右手を力一杯握り締める。
「また手を上げる気なんでしょう、一時的に自分の弱さを誤魔化すためにまた殴る。その繰り返しよ、気持ちが満ちることは一切無い」
明美はズバズバと言った。
「もし力を使うなら、グロリア先輩のように人の役に立つことに使うべきだわ、あなたは力の使い方を間違ってるのよ!」
そう言った直後、明美の右頬が鳴った。
慧の怒りの限界が越えたようだ。右だけでなく今度は左も鳴る。
しかし明美は瞳を閉じずに、慧を睨む。
痛くないというと嘘にはなるが、決して表情を変えなかった。
悲しい顔をすれば負けだと思ったからだ。
「……ごめんね……あなたが受けた痛みが分からなくて……」
慧に叩かれつつ、明美は囁く。
意識不明の妹に対してだ。
「……殴られるのがこんなに辛いなんて……お姉ちゃん知らなかった……」
明美は何度も人に殴られたことは今まで無かった。
妹が味わった恐怖が、慧の暴力を受けることにより実感する。
何もできない屈辱、助けを求められない苦しみに妹はずっと耐えてきたのだ。
「……あなたが受けた思いを……もう誰にも味あわせないから……人任せにしないで戦うよ……」
暴力の痛みが分かった今、弱い立場の人を守りたいと強く思った。
「暴力に……屈したりなんかしない……絶対に!」
明美は最後の一撃を右頬に受けて地面に倒れ込む。
両頬は燃えるような痛みが走るが、泣きたい衝動を必死に堪える。
「調子に乗るからだ。いい加減黙れよ、死にてぇのかテメェ」
「それで満足? 私に勝ったつもり? 暴力じゃ人の心を自由に動かせないわよ」
襲い来る痛みを無視し、明美は片手をついて立ち上がった。
「私はあなたなんかに屈しない! 屈する位なら風紀委員の肩書きなんか無い方がマシだわ!」
明美は人差し指で慧を差した。
「黙れっつってんだよ!」
慧が右手を上げて、明美に殴ろうとしたその時だった。
明美の真後ろを黒い何かが通りかかったと思えば、慧は反対側に吹っ飛んで倒れていた。
目の前には、黒い後ろ髪が妙に立った青年が、明美に後姿を見せていた。
「霧峰……先輩……」
青年は明美より一つ上の学年の、霧峰夜空だった。


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