「じゃあ、行ってくるわね」
「気をつけてね」
玄関で母を見送ると、穂希は空になった食器を片付けて洗い始めた。
働き始めた母に代わって、穂希が家事を担当している。
穂希が退院してから数週間が経ち学校は夏休みに入った。
母は穂希が意識不明に陥ってから、子供の大切さに気付き、穂希を悲しませないようにと就職したのである。
「これでよしっ……っと」
最後の皿を洗い終わり、穂希はエプロンを外して、自分の部屋へと戻った。
参考書やノートを鞄に詰め込み、外へと出た。
外は暑く、セミの鳴き声が響く。
……あの日々は一体何だったんだろう。
日差しの強い太陽を眺めて穂希は思った。
退院前に聞こえていたエリュシオンの声はもうしない。当然のことながら彼のことは誰にも言っていない。
言ったら幻聴でも聞いたのかと心配されるからだ。

 自分が都合良く作り上げた夢だったのかもしれないが、今回のお陰で変化があった。
 母が働き始めたのは勿論だが、穂希の気持ちも変わった。働きながらも、大学に通おうと決めたのである。
 親の力に頼るのではなく、自分の力で切り開きたいと思った。
  
図書館の入り口前で紀子は待っていた。
一緒に宿題をする約束をしたのである。
「穂希! こっちこっち!」
「お待たせー!」
穂希が手を振りながら走った。
その時だった。
……穂希、頑張って。ボクは見てるから。
生暖かい風が流れ、エリュシオンの声が聞こえた。
穂希は立ち止まって左右を見る。周囲には人はおらず『てんしのくに』も持参していない。
数週間ぶりに聞く彼の声に、穂希の胸は温かくなった。
もしかしたらエリュシオンは本当の天使になって、穂希を見ているのかもしれない。
「どうしたの? 急に立ち止まったりして」
紀子が穂希の顔を覗き込む。
「何でもないよ、熱風が吹いて驚いただけよ」
穂希は爽やかに言った。
「それより図書館に入ろう。ここは暑いし」
紀子の肩を軽く叩き、穂希は図書館へと進んだ。

不可思議な日々は終わり
暑い夏は始まったばかりである。

ー完ー

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