ずっと部屋の中にいる日々が延々と続き、わたしは無力感に苛まれていた。
何を食べても、美味しく感じず。
何をしても、ちっとも楽しめない。
わたしの心にはぽっかりと穴が開き、生きてることすら苦痛に感じ始めていた。

……暗闇を歩く生活が終わったのは
些細なきっかけだった。

暗い部屋の中に、扉を叩く音が響く。
スピカは布団の中から顔を出した。
「……誰?」
不愉快そうにスピカは訊ねた。
「誰とは失礼だな、私だ」
凛とした綺麗な声に、スピカは紫色の瞳を一杯に開いた。
懐かしく、そしてスピカが憧れていた先輩の声だからだ。
スピカは起きて、扉を小さく開ける。
そこにはスピカの想像通り、長く伸びた燈色の髪に、痩身の女性の姿があった。
「久しぶりだな、スピカ」
女はスピカに微笑んだ。
スピカは顔を頬を染め、目線を下に反らす。
ボサボサの髪に、しわくちゃの部屋着など、お客の前でするような身なりではない。
それも、スピカが憧れている先輩の前で見られたのだから、恥ずかしくて仕方ないのだ。
「お……お久しぶりです。セイカ先輩」
言葉に詰まりつつ、スピカは返事をした。
突然の再会に、戸惑っているのだ。
「こんな所で立ち話も難だし、喫茶店に行って話さないか?」
「今すぐにですか?」
スピカは憂鬱な気分になった。
ハンスの死後、一度だけエレンと一緒に買い物に出かけたが、ハンスが死んだ病院を見て気絶してしまい、それ以来、玄関を見るだけで足がすくんでしまうのだ。
いくら先輩の誘いとはいえ、気が引ける。
しかし、セイカは頑として譲らなかった。
「すぐにだ。たまには外の空気も吸わないと、体に良くないだろ」
セイカは言った。
今の言葉で、一体誰がセイカを呼んだのか察しがついた。
「……エレンですね、先輩を呼んだのは」
スピカは視線を動かして、エレンの姿を探したが、どこにも見当たらない。
友達がずっと部屋に篭りっぱなしで、心配したのだろう。
早く立ち直ってもらいたいと考え、スピカが尊敬する先輩に説得してもらおうというのがエレンの目的に違いなかった。
セイカは一年前に遠いギルドに移籍し、この街に来るのは容易ではないが、スピカのために戻ってきたのだ。
「エレンだけじゃない、私も心配なんだ。お前がずっと不健全な生活を営んでいることがな」
「……」
スピカは黙った。
エレンだけでなく、先輩にも心配をかけていることにスピカは胸がちくりと痛んだ。
振り返ってみれば、人に頼りきりの生活をしていた。家事を全てエレンに任せていた。エレンは黙ってはいるが、心ではスピカが立ち直らない事が悲しいのだ。
元にエレンはやつれた顔をしている。エレンの心配がセイカ出現によって証明された。
……わたしは人に迷惑を掛けっぱなしね。
スピカは追い詰めた表情を浮かべる。
このままみずほらしい姿を、セイカに見せたくない。
「……すぐに仕度をしますので、待ってもらえますか?」
スピカは意を決し、セイカに伝える。
セイカは軽く頷いた。
不安じゃないというと嘘にはなるが、セイカの好意を無駄にしたくなかった。

スピカはセイカに連れられ、近くの喫茶店に来た。
昼時という事もありテーブルには老若男女問わず、多くの人が座り、食事やデザートなどを楽しんでいる。
スピカはセイカと向かい合う形で座っていた。
「ここのケーキは相変わらず美味いな」
セイカは両手でケーキを持ち、口の中でモゴモゴと頬張っていた。彼女の前にはケーキの皿が大量に並んでいる。
セイカは甘い物が大好きで、特にケーキには目が無い。
スピカは紅茶をすすり、幸せそうなセイカの様子を見て、暖かい気持ちになった。
元気そうな先輩の姿を見られて安心したのだ。
「スピカ、お前も一つ食べないか?」
セイカはケーキの一つを差し出した。いちごが乗ったショートケーキだ。
セイカの大好物だが、スピカを元気付けるために勧めたのである。
スピカもセイカと並んで甘党なのだ。
しかし、スピカは首を横に振る。
「いえ、お気持ちだけで十分です」
「そうか」
セイカは残念そうに呟き、ショートケーキを下げる。
セイカが自分の好物を人に与える事など滅多に無い、それでも気分が乗らなかった。
スピカが身だしなみを整えて、外出しただけでも苦行なのだ。
早く話を終えて、自分の部屋に戻りたかった。騒がしい喫茶店は落ち着かない。
「先輩……お話というのは?」
スピカは訊ねた。
セイカは口に含んでいたケーキを胃の中に納め、緩んでいた表情を急に引き締める。
「……分かっているとは思うがお前に関することだ。話はエレンから全て聞いた」
セイカは腕を組んだ。
「お前は今のままで本当に良いのか?」
その質問に、スピカの心はぐさりと来た。
篭りきりの生活が楽しい筈が無い、いつまでも同じ事を堂々と繰り返し、何も始まらないし何も動かない。
エレンも大切な試験を控えている。それなのに自身が動かなくなってしまった事により、家事の負担が増え、勉強をする時間が減っていた。
友に申し訳ない気持ちがある反面、また傷つくのではないのかという恐怖が邪魔をしていた。
スピカの体はガタガタと震えた。
「良いだなんて……思っていません……」
スピカは掠れた声で話し始めた。
恐怖がわき上がるが、必死に押さえ込む。
「許せないんです……わたし自身が……たった一人の人間を救えなかった事が」
スピカは薄っすらと涙を浮かべた。ハンスの手の温もりが失われてゆくのを、安らかとは言えない死に顔が頭の中に鮮やかに蘇る。
ハンスの死から二ヶ月近く経つが、忘れることが出来ない。
「悔しいです……!時間を戻す魔法があるならやり直したい……!」
スピカは悲痛な叫び声を上げた。セイカはスピカの心情を察した。
「辛かったろうな、唯一の家族だったってな」
「そうです。十一年間離れて、再会した時には既に対立関係でした。だから余計に悔しくて悲しくて胸が張り裂けそうです!」
スピカは何度もテーブルを叩く。
話している内に、自身の不安よりも、ハンスを守りきれなかった歯痒さが、闇の集団に対する怒りが込み上げてきた。
ハンスの死後、こうして深い所まで自分のことを話したのはセイカが初めてである。
セイカは言葉遣いはぶっきらぼうだが、大人の女性らしい包容力があり、人間関係のもつれや、仕事のトラブルで悩んだ時も、彼女に相談して解決した。
今回の件も、エレンやアディスに胸を開いても良かったのだが、二人に心配かけまいと我慢してきたのだ。
「出来る事なら奴等をぶっ潰したい、この手でアークを倒したい!」
言いたい事を全て吐き出し、スピカは残っていた紅茶を全て飲み干した。
セイカは席を立ち、スピカの肩にそっと手を置く。
「今の言葉に嘘は無いな?」
セイカはわざと意地悪な質問をした。スピカの言葉が真実かを見極めるために。
スピカはいいえ、とはっきり答える。
「ありません! わたしは闇の集団の存在を許せません!」
スピカは大声で叫んだ。その声に周囲の人間はスピカに視線を向ける。
嘘など無い、闇の集団を心の底から憎んでいるのだ。
こうしてセイカと話している間にも、闇の集団の卑劣な行いにより人々が苦しんでいる。
これ以上、悲しい思いをする人を増やしたくない。
「……わたしにこんな考えがあったのね」
スピカは唇に指を当て、初めて自身の気持ちに気付いた。
「それだけの意気込みがあるなら、討伐隊に入隊してみないか?」
セイカは一枚の紙をスピカに見せる。
「何ですか? 討伐隊って」
初めて聞く単語に、スピカは困惑した。
「闇の集団などの犯罪組織を取り締まるために作られた組織なんだ。人々を守る事は当然だが、圧力をかけて奴等の行いを阻止することができる」
「……初めて知りました。そんな組織があるのですね」
「今のお前にぴったりだと思って持ってきたんだ」
聞いている内に、段々と希望が沸いてきた。討伐隊に入隊すればアークを倒す確率が高くなるのだ。
賞金稼ぎは魔物退治、人探し、引越しの手伝いなどで、闇の集団に関する仕事が入ってくることが滅多に無い。
ハンスの時は、本当に運が良かったのだ。
「ただし、入るにしても難しい試験をパスしないといけない、例え入ったとしても十人近くは訓練の厳しさに我慢しきれずにやめている……言うのも難だが過酷だぞ」
スピカは手を力強く握る。
条件は困難を極めるが、やってみる価値はありそうだ。
もしもこの好機を捨てたら、罰が下りそうである。
「構いません、どんなに辛くても耐えます。闇の集団を潰すその日まで!」
スピカは真剣な面持ちで言った。
試験は来年の四月、現在も四月、時間的にはまだまだ余裕があるが、すぐに始めなければ間に合わない、試験の難易度が高いのであれば尚更だ。
スピカの中に新しい目標ができた。討伐隊に入隊し、闇の集団をこの世から無くすこと。
「先輩、話を聞いて頂き有難うございました。お陰で気持ちが晴れました」
スピカは頭を下げた、セイカが現れなければ部屋の中でずっと変化の無い生活をしていたし、目標も無いまま日々を無駄に過ごしていた。
セイカはスピカの両手を握った。
「しっかりやるんだぞ、お前にならできる。だから諦めるなよ」
セイカは微笑んだ。スピカになら困難を乗り越えられると励ますように。
「はい! 頑張ります!」
スピカははきはきと言うと、久々に笑顔を見せた。
彼女の中に不安は無くなった。代わりにできたのは新しい目標だった。

―――あきらめない、目標を果たすまで。
どんなに時間がかかっても、やり遂げよう。

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