「このケーキ美味しい!」
「気に入ってくれて嬉しいわ」
緑は明美とリビングでケーキを食べていた。
母が近くで買ってきたケーキを食べ、女同士の会話にも一段と盛り上がっている。
両親と弟の太一は外出しており、いるのは姉妹だけである。
緑が食べているのはチョコケーキで、明美はアップルパイである。
「お姉ちゃん、アップルパイが本当に好きなんだね」
チョコケーキを飲み込み、緑は言った。
姉の明美はアップルパイが大好物である。
「アップルパイは譲れないの、緑がチョコケーキが好きなようにね」
「どこで買ったの」
「近くの店よ、今度一緒に行く?」
美味しいケーキの店に、緑は興味深々だった。
「行く!」
緑は元気良く言った。
ケーキを食べ終え、姉妹揃ってお茶を飲んでいた。
「学校は慣れた?」
明美の問いかけに、緑は微笑む。
「何とかなってるよ」
緑は明るく答えた。
緑は一時、意識不明の重体に陥っていたが、奇跡的に回復し、現在は違う学校に転校している。
最初は学校の雰囲気に戸惑ったものの、新しい友達もできて毎日が充実している。
「なら安心したわ、でも何かあったらすぐに言ってね」
緑は軽く頷いた。
自身が自殺未遂を起こしたので心配なのだ。
「そうそう、話を変えるけどさ、今度の月曜日はバレンタインだよね」
緑はカレンダーに目を向ける。
二月十四日はバレンタインだ。
「お姉ちゃんは誰かにあげる?」
緑は首を傾げた。姉がバレンタインでどんな人にチョコをあげるか気になるのだ。
「あげるわ」
明美はきっぱりと言った。
「だれ?」
「そういう緑こそ、誰かにあげるの?」
「ずるい、お姉ちゃんが答えないなら、私も教えない〜っ」
緑は口を尖らせる。
明美はため息をつく。
「あくまで義理チョコよ」
「早く教えてよ、気になるじゃない」
緑がせかすと、明美は咳払いをした。
「……陽斗先輩」
明美は小声で言った。
頬を赤く染め、見るからに恥ずかしそうである。
「陽斗先輩って、お姉ちゃんと同じ部に所属している人だよね」
陽斗は明美の先輩で、一度だけだが、姉の学園祭に出向いた際に緑も彼と会ったことがある。
明美と楽しそうに話をしているのが印象強い。
「お世話になっているしね」
「まさかだと思うけど、手作りを渡そうだなんて考えてないよね」
緑は突っ込んだ。
明美の料理音痴は妹の緑も痛いほど味わっている。
星野家には今でも明美が作った"不味いグラタン事件"が語り継がれている。
「そんな訳ないでしょ、店で買ったのを渡すわよ」
「料理はお姉ちゃんの弱点だからね」
緑が言うと、明美は「放っておいてよ」と憂鬱な顔を浮かべる。
料理音痴なのを気にしている様子だ。
「緑こそ、誰か渡す人がいるんでしょう?」
明美は話を切り替えた。
「いるよ、お姉ちゃんと同じく義理だけどね」
緑は内心ドキドキしながら言った。
いざ言おうとすると緊張する。
「どんな人?」
明美が緑の顔を凝視する。
「私より三つ上の先輩で、背が高くて素敵な人」
明美は話を聞いてうんうんと頷く。
「名前は、お姉ちゃんと同じ学校に通っている小倉煌大さん」
名前を出した途端に、明美は固まった。
何か不都合なことでもあるのだろうか。
緑は気になって訊ねることにした。
「ど……どうしたの?」
「ごめんね、意外な人で驚いたの……」
硬直していた明美は口を開いた。
「どうして小倉先輩にあげたいのかなって」
「……話さないとダメ?」
「緑は小倉先輩がどんな人かも分からないでしょう」
明美の言うとおりだ。
それに姉に心配をかけるのは得策ではない。
「私ね、小倉先輩に助けられたの」
「え……」
明美は口を半開きにした。
「外を歩いている時に柄の悪い男の人に絡まれたの、私は何もやってないのに、一方的に理由をつけてね……とっても怖かった」
緑は苦い記憶が脳裏に過ぎり思わず表情をゆがめた。
楽しい日々ばかりではなく、時には嫌な経験もすることもある。
「その人が私を殴りかかりそうになった時だったの、小倉先輩が現れてその人を倒してくれたの、凄い早業でびっくりしちゃった、礼を言いたかったんだけど、小倉先輩は既にいなくなってたの」
「成る程、そのお礼をかねて小倉先輩にチョコを渡したいって訳ね」
明美は席を立ち上がり、緑の横に来た。
「その通り……ってどうしたの?」
緑は姉の行動に疑問を抱く。
すると、額に軽い痛みが走り、緑は思わず額に手を当てた。
デコピンだ。
悪いことをした時に、明美はおしおきをかねて行う。
「どうしても、こうしても無い、何でそんな大切なことを黙ってたの! 殴られかけたのよ! 下手すれば怪我してたかもしれないじゃない!!」
明美は物凄い剣幕で怒った。
姉は風紀委員をしているため、未遂でも暴力を見過ごせないのである。
「ごめんなさい……」
緑は額を摩りながら謝罪した。
謝罪が効いたようで、明美は怒りを和らげた。
「……話は後に置いといて、理由は分かったわ、そういうことなら協力するわ」
意外な展開に、緑は驚きの表情を浮かべた。
「お姉ちゃんが?」
「私も小倉先輩には恩があるしね」
明美は片目を閉じた。
二月十四日、バレンタイン当日。
緑は明美と共に、廊下を歩いていた。
「……小倉先輩いるかな」
緑は不安げな表情を明美に見せる。
煌大はルックスが良いことから、女子の間に絶大な人気がある。
無口で、友達付き合いがあまりない。
合気道を習っているらしく、噂ではかなりの腕だという。
情報はこれくらいだ。
聞いた第一印象からして、近寄りがたい雰囲気だ。
「心配いらないわ、きっといるわ」
明美が事前に煌大へ連絡を取り、煌大のいる教室に向っている。
「チョコ食べてくれるかな?」
「小倉先輩が甘い物嫌いだって聞いたことないわ」
姉妹が話をしている内に教室に辿り着いた。
明美は教室の中を覗きこみ「失礼します」と一声かける。緑はひょっこりと教室の中を覗きこむと煌大と明美が話をしていた。
見る限りでは、煌大と姉以外に人はいない。
渡すのには絶好のチャンスである。
「ちょっと待っててください」
煌大に声をかけ、明美が緑に駆け寄った。
「何だって」
「良いから来て、大丈夫だから」
明美に言われるがままに、緑は煌大の前へ来た。
「ほら、思い切って渡しなさい!」
明美は緑の背中を押す。
「ちょ! お姉ちゃん!」
気持ちの準備ができてないため、緑は戸惑った。
煌大の顔が緑の目の前にあり、緑の頬は赤くなった。
「あ……あの……」
緑は視線を泳がし、やっと言葉を出した。
煌大は無表情のまま、緑の話を黙って聞いている。
「初めまして、星野緑と言います。前に助けていただき有難うございました」
緑は軽く頭を下げる。
煌大は鼻をこすり、困惑した様子だった。
助けたことを本人はすっかり忘れているようだ、かなり前なので無理もない。
「お礼をかねて、チョコを作ってきたので受け取って下さい」
緑はチョコ入りの箱を煌大に差し出す。
煌大は箱をそっと受け取った。
「このチョコ、星野さんの手作り?」
「はい」
煌大の問いかけに、緑はぎこちなく答える。
すると、煌大は微笑んだ。
「有難う、大切に食べるよ」
快い返事に、緑はその場に固まった。
明美に声をかけられるまで、緑はそのままだった。
その後、緑は煌大のことが気になり始め
煌大に関する情報を集めてるとか。
バレンタインは緑にとって大きな一歩となった。
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