『メネ……どうして死んじゃったの……』
小さな墓の前で、ハンスは涙を流していた。
スピカはずっと泣いているハンスの隣で、彼を見守る。あまりに可哀想で、どう声をかけて良いのか分からない。
二年近く可愛がっていた小鳥が死に、ハンスの心には悲しみが渦巻いているのは確かだ。スピカは小鳥の世話はしなかったが、ハンスの様子を見ると棘が刺さるように心が痛んだ。
スピカは黙って立ち上がり、ハンスに背を向けた。下手な慰めは弟を傷付けると思ったからだ。
小鳥の死を境に、動物思いで優しかったハンスの性格に影響が出始めた。口数が少なくなり、スピカだけでなく両親ともあまり喋らなくなった。
休みの日は一日中家の中に引き篭もり、ずっと布団の中に眠っていることが多くなったのだ。食事は一緒にするが、話しかけても「うん」や「わかってる」としか話さず、弟の急激な変化にスピカは戸惑った。こんな事は今までに無かったからだ。
スピカが何度も遊ぼうと誘ってもハンスは外に出ようとしない、無理矢理にでも出そうとしたが、激しく拒絶したため、その後は友達と一緒に遊ぶ事の方が多くなった。
『ねえ、ハンス君はどうしたの』
『元気にしてる?』
『お見舞いに行こうか?』
友達の心配は嬉しかったが、逆に重荷になった。どう抗ってもハンスが元に戻る気配が無い。小鳥の死が幼いハンスの心に深い空洞を作り、彼の心理構造をじっくりと、そして確実に変えていったのだ。
……わたしは悲しかった。あなたを救ってあげられなかったことを。できる事ならばあなたと変わってあげたい。そう思った。
突如降りて来た集団に戸惑いつつも、スピカは男が振り下ろしたこん棒を右に素早く動いて回避し、相手の首筋に右手で一撃を与え失神させた。
一息つく暇も無く、次は二人の男が同時に襲い掛かってきたが、スピカは軌道を読んで攻撃をかわし身を屈めて二人の足を蹴り払い、まともに食らった二人は大きな音を立てて地面に倒れ込む。
スピカが相手にした失神した男も、倒れた二人の男にも武器を出さなかったのは、闇の集団とは関係の無い一般市民だからだ。襲い掛かってくる人間の目は虚ろで明らかに操られている事が一目で分かった。
スピカが武器を出さなかったのは、一般市民に怪我をさせたくないという思いからだ。天井でハンスの指示に従っていたのも恐らく彼等だろう。
闇の集団は時に人を洗脳し、何の罪の無い人間に攻撃をさせる卑劣な部分があり、今回の襲撃もその類に違いなかった。スピカは過去に二度、今と同じような状況に陥った事がある。
「一般人は殺さないんだねぇ、これは驚いたわ」
ハンスは感情のない拍手をスピカに送った。スピカはハンスの方向を向き、鋭い目つきで彼を睨む。弟のせいでは無いのは分かっていた。元凶は闇の集団だが、先ほど馬鹿にされた怒りのため、彼に矛先が向けられた。
「こんなの卑怯じゃない! 正々堂々としなさいよ!」
「怖い顔をするね、そんな顔していたんじゃ男にモテないよ?」
ハンスは涼しい顔で言った。
「私はしばらくお姉さまを観察したいんだ。どれだけ強くなったのか気になるしね……再会の暁に私が考えた素晴らしいゲームを用意したんだ」
ハンスは後ろを向き「そろそろ入れてあげなよ」と一声掛けると、閉じていた扉が開き、二人の男女が現れた。
女の顔を見てスピカは驚愕の表情を浮べた。赤毛に緑色の瞳、ふっくらとした顔、彼女はスピカと張り合っていた賞金稼ぎのライバル・レリィアである。
「レリィア……」
スピカが名前を呼ぶと、相手も気付いたらしく、レリィアは見下ろすような目線でスピカを見た。
レリィアの腕は縛られていおり、捕まっている様子だ。
「こんな形で貴女と会うなんて驚きだわ」
「それはこっちの台詞よ、どうしてあなたがここにいるの、まさかハンスと再会を仕組んだのもあなただったの?」
レリィアは嫌味を含んだ口調で言うと、スピカは聞き返す。
レリィアは過去に三度ほどスピカの手柄を横取りし、危険な依頼だと分かっておきながらスピカに押し付けたり、極めつけはスピカが好きだった男性を奪ったりなど、彼女と関わって良いことなど皆無であった。
スピカは彼女と縁を切りたかったが、仕事柄そうもいかず、我慢を重ねて彼女と付き合っていた。今回の塔の依頼も「お金がいいから行きなよ」とレリィアに誘われて来たのだ。
「そうよ、貴女の弟と高額の取引して再会させたの……感動的でしょ?」
レリィアは平静に答える。普段の彼女は高飛車でもっと声を高くして言うはずだが、いつもとは様子が違う。ハンスの言っていた「ゲーム」という単語と、タイミングに合わせてレリィアが出現したのも引っかかる。
スピカは深呼吸をしてレリィアに言った。
「あなたらしくない行動ね、わたしとハンスを再会させてくれるなんて、とても嬉しいわ……どういう風の吹き回し?」
レリィアが口を開こうとした所に、ハンスが口を挟む。
「レリィア嬢は、ゲームを盛り上げるための人質って所だね」
ハンスはレリィアの前に立つ。
「彼女の心臓にはね、この塔だけでなく街をも吹っ飛ばす破壊魔法が植えつけられているんだ。あと三分後には発動するよ」
「……え?」
唐突な言葉にスピカは耳を疑う。
どういう……こと?
非道な行いに、スピカの内面は混乱するが、その間にもレリィアを連れて来た男が斧で攻撃を仕掛けてきた。反応が遅れスピカは右腕に切り傷ができたが、急所に肘を突き、相手を倒した。
「レリィア……本当なの?」
腕を放置し、スピカはレリィアに訊く。
「お金を手にしたと思えばこのザマよ、全くついていないわ、貴女の弟は顔は貴女と瓜二つだけど、性格は180度違うのね」
レリィアは溜息混じりに言った。ハンスに阻まれて見えないが、憂鬱な表情をしているに違いない。
レリィアはお金が何よりも好きで、いかなる手段を持ってでも手に入れたがる体質の持ち主である。今回はお金を貰ったのはいいが、命の危険に晒され、レリィアにとっては人生最悪の日だろう。
しかし、本当の意味で許せないのは、レリィアの心を弄んだハンスだ。
スピカにとってレリィアは好かない人物だが、命を奪っていい相手ではない。
「ハンス魔法を解除して! レリィアは関係ないわ!」
「私には無理だね、だけど一つだけ解除できる条件があるんだよ」
「言いなさい!」
スピカは声を荒げた。もはや迷っている時間は無い。
こうしている間にも、レリィアの命には危険が迫っている。
「簡単だよ、お姉さまが傷付けていない一般市民を残らず全員殺す事、そうすればレリィア嬢に仕掛けられた破壊魔法は解ける仕組みになっているんだ。もし出来なかったらさっきも言ったとおり、街や塔は大爆発が起きて全員死の世界にこんにちわさ、単純な人間にでも分かる選択肢だと思うけどな」
ハンスは腕を組んで答えた。
あまりに残酷な選択肢に、スピカは表情を歪める。レリィアが死ねば街や人が助かる。市民が死ねばレリィアが助かる。
どちらも命がかかっており、簡単には決められない。
「あははっ! やっと苦しみ始めて来たね、そうでなきゃ面白くないよ!」
ハンスは大声で笑う。
挑発的な言動をずっと我慢を重ねてきたが、スピカに蓄積された怒りの火山が噴火した。
スピカは手を強く握り締め、ハンスに素早く肉薄し、彼の頬に拳を叩きつける。
ハンスは左側に吹き飛ばされ地面にごろごろと転がる。スピカはハンスを睨む。
人の命を軽率に扱う態度がどうしても許せなかった。暴力を振っても事態が変わるわけでもないが、彼に痛みを与えなければ気が済まなかった。
「あなたは人間として最低だわ、しばらく反省してなさい」
スピカは冷たく言い放った。回転が止まったハンスは小さく体を動かしてはいるが、立つ気配が無い。スピカに強烈な打撃を食らった事にショックを受けているのか?
彼の深層心理は分からない。
好機だと見計らい、スピカはレリィアに駆け寄り、縄を解く。
「大丈夫?」
スピカの問いかけにレリィアは元気良く、両手をぶらぶらと動かす。
「貴女のお陰で怪我一つないわ」
「そう、良かったわ」
スピカはレリィアを悲痛な目で見る。彼女を殺さなければ街や人々の命は無い。ハンスの言葉を裏付けるようにレリィアの心臓からは、淡い青色の輝きが点滅する。
レリィアは命の危険に晒されているにも関わらず、いつもの調子でスピカに話した。
「貴女の弟って、お人好しな貴女と違って性格悪いよね……あんな良い顔してんのに」
レリィアは不満を漏らした。確かに彼女の意見にも一理ある。
いつもは彼女の元を早く去りたい衝動に駆られるが、命の危険があるためか、レリィアの話を耳にしたくなった。
「わたしもあの子と十一年ぶりに再会したから、あんな風に変わってるなんて驚いたわ」
スピカは過去の話をこぼし、何故話したのか困惑する。
本来なら心から信頼する仲間にしか話さないのだが、悪友にも話してしまう自分に対し疑問が沸いた。
「何でこんな時に昔話なんかしてるんだろ? 今はそんな時じゃないのに」
「十一年って、貴女が七歳の時よね? どうしてそんなに長い間離れていたのよ」
レリィアは真剣な眼差しでスピカを見る。スピカのことを知りたいと言わんばかりに。
スピカの脳裏には、彼女から受けた受難の日々が蘇った。こうして彼女に知識を与える度に大損をしてきた。最新の道具、高額の魔物退治、素敵な男性などを彼女に教える度に、常にスピカが被害を受けていた。
迷惑を掛けるその度にレリィアは謝罪し、許してきたが、正直うんざりだった。弟の情報を与えれば、何らかの被害が出るに違いない。
少し漏らしたが、これ以上は言いたくはなかった。
スピカは両手を当て、「ごめんなさい」と言った。
「この話は後にしましょう、今はあなたの命を救うのが先決だわ」
スピカが言うと、レリィアは顔色を変えて視線を反らす。
「……救う方法なんか無いわ、貴女の弟だって言ってたでしょ? 私にだって分かるのよ、この街や人たちの命を救うには私が死ななきゃいけないって」
レリィアは更に続ける。
「私は貴女に散々迷惑掛けてきたじゃない、きっと神様が罰を下したのよ『苦しみながら死になさい』ってね」
レリィアは今まで見せたことのない暗い表情を浮かべた。
スピカの心境は複雑だった。彼女のことを快くは思っていなかったが、レリィアが苦しんでいるのを見ると哀れでならない。
「そんなことは―――」
スピカが口を開こうとしたが、それは叶わなかった。なぜならレリィアが力いっぱいスピカを横に突き飛ばしたからだ。その直後、レリィアの胸にハンスの凶剣が突き刺さり、レリィアは口から鮮血を溢す。
レリィアはスピカを庇ったのだ。
「ちっ、外したか……本当はお姉さまを刺そうと思ったのにな」
ハンスは舌打ちして、スピカを汚物でも見るように睨みつけた。頬は赤く腫れあがっている。
彼の全身から憎悪が出ている。顔を傷つけられた事によるものだ。
レリィアは胸に手を押さえ、痛みに表情を歪め、地面に横たわる。
「まあ良いか予定は変更さ、気が変わったから下らないゲームは取り止めだ……お前は用済みだ」
「やめてっ!」
スピカは体勢を整え直そうとするより、ハンスの剣がレリィアの体を貫く方が早かった。剣が刺さる度にレリィアは唇から鮮血を溢し、苦しげな呻き声を発する。
ハンスは歯を見せて笑いつつ、首、両腕、脇腹などを次々に刺していった。その度に鮮血が溢れ出し、ハンスの服を汚した。
悲しさと心の痛みがスピカを襲う。
レリィアは最期にスピカの命を助けてくれた。自分が死ぬと分かっていたから、同時にスピカの心にあった迷いを晴らすために、自ら犠牲になったのだ。
……どうして……こんなことに……
スピカは悔しかった。同じ場所で働いていたライバルを救えなかったことが、もう少し時間があれば、レリィアとは和解できたかもしれない、先ほど彼女に過去の話をしたのも、心のどこかでは彼女のことを分かち合いたいと思ったのかもしれない。
やがてハンスは手を止め、レリィアの体を強く蹴った。体中穴だらけで、瞳を見開いた死体となった。彼女の表情は恐怖で引きつり、苦痛のまま死んでいったことを物語る。
元の美しかったレリィアとは程遠く、おぞましい屍となった。
ハンスは血の付いた剣をそのままに、スピカの方を向く。
瞳は殺気で燃えている。
ハンスはゲームを楽しむつもりだったが、スピカに顔を殴られた事がきっかけで、ゲームをする気が失せたのだ。
「私を傷付けた代償は大きいよ? お姉さま」
恐怖に飲まれそうだったが、スピカはハンスを見据える。
ハンスが小鳥を可愛がる優しい少年ではなく、世間を騒がす殺人鬼なのだと、否が応でも理解した。
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