スピカは灰色の地面を歩いていた。とてもゆっくりと。
  彼女が良く知る場所だが、何処なのかはっきりと思い出せない。
  ただ、前に進むにつれて、心には不安が膨れていった。
  ……行きたくない、嫌な予感がする。
 スピカは足を止めようとしたが、彼女の意思に反し足は動き続ける。まるで何かにとり憑かれたように。
 ……お願い止まって! 行きたくないの! 嫌なの!!
 足に力を入れ、進行を食い止めようとしたものの、努力も空しく足は動く。
 スピカは独りでに動く両足を力一杯に押さえつけた。
 思い出したくない事実が行く先で待っていると、心が警報を鳴らす。
 これ以上行ってはいけない、行ったら自身が壊れてしまう。そんな気がしたからだ。
 だが、二度の努力も叶わず足は前に進み始めた。頭で分かっていても体は現実を求めるかのように。
 やがて周りの風景が変わり、広い屋上に出る。
 独りでに動く足は、ようやく止まった。彼女が最も見たくない光景がそこにあった。それは胸から血を流して倒れているハンスの姿だった。
 無残な弟の姿にスピカは絶句し、口に手を当てた途端に、何かぬめりとした感覚がして恐る恐る掌を見る。
 「……っ!!」
 それは血だった。右手に大量に付着していた。いつの間にか握り締めていた短剣も同様だった。
 「嫌あっ!」
 悲痛な叫びを上げ、スピカは短剣を地面に落とす。
 この状況を見て、はっきりと記憶が蘇り、心が拒んだ理由が分かった。
 スピカは世界の平和を守るためにハンスを自らの手で殺めたのだ。本当はハンスの死を望んではいなかったし、彼を助けたかった。
 しかし、時間が許してくれなかった。時間さえあれば彼を救えたかもしれないのだ。
 彼が死んだ今になっても、救う方法を知っても遅すぎる。
 「ハンス……ごめんね……守ってあげられなくて……」
 スピカは双眸から涙を流し、土下座をする。
 謝っても、ハンスが戻ってくるわけでは無いが、彼の命を救えなかった事を詫びたかった。
 「悪い姉さんを許して……本当にごめんなさい……」
 スピカは謝罪に言葉を口にする。
 友達の命だけでなく、家族の命を守れなかった。心は焼けるような痛みのあまり叫び声を上げている。
 どちらも一生忘れないし、死ぬまで背負っていくことになるに違いない。
 『そんなに謝らなくてもいいよ』
 聞き覚えのある声に、スピカはゆっくりと顔を上げる。
 彼女の目の前には、透明な体をしたハンスの姿があった。
 ハンスは穏やかに微笑んでいる。
 「ハン……ス?」
 スピカは瞳を凝らし、ハンスを眺めた。
 「本当にハンスなの……?」
 『姉さんが戸惑うのも無理ないか、僕を幽霊だと思ってもらっても構わないよ』 
 涙を拭き、スピカは作り笑いを浮かべる。
 例え幽霊だろうと、ハンスと話せるだけでも嬉しいのだ。
 「ハンス……わたし……やっぱりあなたを死なせたのは間違ってたとしか思えないよ……毎日が生き地獄で何をやっても楽しめないの」
 スピカは気持ちを打ち明けた。
 ハンスを失ってから、食べても飲んでも美味しいと感じず、以前は心の底から楽しいと思ったことが、今では単なる作業でしかない。 
 『姉さんは正しい行いをしたんだよ、僕が死ななければ世界を救えなかったんだから』
 「そんな事無い……全ての人があなたを敵だと思っても……わたしはあなたに生きて欲しかったよ」
 スピカの瞳から再び涙が溢れ、手で拭う。
 『僕が箱を開けなければ、姉さんを苦しめないで済んだのに』
 ハンスは笑顔を消し、暗い表情を浮かべた。
 否定するように、スピカは首を横に振る。
 「開けても開けなくてもアークは来たわ、あいつの狙いは箱自体だから、あなたのせいではないわ、だから自分を責めないで」
 『本当に……そう思ってる?』
 「当たり前じゃない」
 スピカは強く言った。
 元々は双子の親が箱など買わなければ、アークは家に現れず、十一年もの間引き裂かれなかったのだ。ハンスを責めるなど理不尽でしかない。
 両親は死に、ハンスも死んだ。スピカは一人ぼっちになってしまったのだ。
 「わたし……あなたと再会した時に、剣を交えるのは嫌だったの、ちっとも戦いたくなかったの、逃げられるなら逃げたかった」 
 スピカは話を切り替えた。ハンスにこれ以上自分を責めて欲しくないのだ。
 ハンスはスピカの気持ちを察し、彼女の話に乗った。
 『……僕も姉さんと剣を交える時は凄く嫌だったよ、本心では戦いたくなかった』
 それから、二人は延々と語り合った。
 スピカはハンスと離れ離れになった日々のことを、どれだけ安否を気にしていたか、会って話したかったなど。
 スピカの話が終わると、ハンスも自らの事を話し出した。
 闇の集団での過酷な生活、任務のために次々と人を殺めた事を、任務に失敗しアークから厳罰を受けた事も。
 お互いに横たわる溝を埋めるように、二人は表情を変えないまま話した。
 全てを語り終えると、スピカは軽く溜息をついた。
 「……わたし達ってつくづく兄弟だなって思ったわ、やる事がそっくりね」
 スピカは言った。容姿が瓜二つなだけでなく、事件を起こした日や大切な人を失ったタイミングが全て同じだったからだ。
 あまりに一致し過ぎて驚きを隠せない。
 『姉さんと僕が双子だからだよ、無意識に同じ行動をするんだよ』
 「考えてみればそうよね、同じ服を着て、同じ玩具を共有して、同じ布団で眠って、あなたはいつもわたしの側にいたのよね、違っている筈がないわね」
 スピカは半透明のハンスに触れる。
 『今は状況が違うよ、僕は死んでいるけど、姉さんは生きているよ』
 その言葉に、スピカは表情を歪ませる。
 いくら考えても、ハンスの未来を閉ざしてしまった事が間違えていたとしか思えないからだ。
 『姉さん、これだけは言っておくよ、絶対に自殺しないで』
 心中を見抜いた発言に、スピカは言葉を失う。
 『自殺しても、僕や父さんや母さんに会えないよ、自分で命を絶った人間は地獄に落ちるんだ。今は辛くてもしっかり生きて』
 厳しくも優しさを含んだハンスの言葉に、スピカの胸は熱くなる。
 確かにハンスを失ってから罪悪感のあまり、何度も命を絶とうと思ったからだ。
 ハンスが話している間に、彼の姿が薄らいでいくことにスピカは気付く。
 「ハンス……あなた……」
 『もう時間が来たみたいだ。本来僕はこの世に存在しない人間だからね』
 ハンスは寂しそうな表情を見せた。
 「嫌だよ……わたしを一人にしないで……あなたがいなければ、わたしは生きていけない……」
 スピカはハンスをそっと抱きしめて、三度目の涙を流す。
 ハンスは手をスピカの頭に乗せる。
 『姉さんは一人じゃない、姉さんを思ってくれる人がいるんだから、その人達を悲しませたら駄目だよ』
 ハンスが言ってるのは、エレンにアディス、そしてスピカと関わりのある人間の事である。
 死んだ自分より、生きている人を大切にして欲しいというのが、ハンスの願いなのだ。
 スピカはハンスに伝えたいことが沢山あったが、一つにまとまらない。
 早く言わなければハンスがいなくなってしまう、スピカは押し寄せる悲しみを堪え、必死に言葉を探す。
 「ハンス……わたし……」
 『僕は姉さんの幸せを願ってるからね、姿が見えなくても側にいるよ』
 やっとの事で、スピカは口を開いた。
 しかし既に遅かった。言葉を伝える前に、ハンスは空気のように姿を消し去ってしまった。
 
 長い夢から、スピカは目覚めた。
 瞳は夢と同様に涙が溜まっている。
 「また同じ夢ね……」
 スピカは枕の中に顔を埋める。
 いつもハンスに言いたいことを言えずに夢から覚める。毎日その繰り返しだ。
 ハンスの死から三週間が経ったが、そう簡単には立ち直れていない。時の経過と共に悲しみが増すばかりで、夢がスピカの苦痛を増幅させていた。
 幻想で会えても、現実にはいないからだ。
 「ハンス……ごめんね……」
 体を震わせてスピカは謝った。
 頭では分かっていても、心が受け付けない。
 スピカの深い悲しみを癒すには、膨大な時間を要すのだった。
 
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