私は過去の自分と決別したかったんだ。
弱々しくて、いつも両親を困らせる自分が大嫌いだった。
……強くなって、馬鹿にした奴らを全員見返したかった。
特にお姉さま、貴方をね。
貴方は私が兄弟だからって、剣の稽古の時、度々手を抜いていたよね?
正直言って許せなかったよ。
一緒に生まれてきたとかそんな下らない理由で、本気を出さないなんて卑怯だよ。
今でも思い出すよ。私を自分を「僕」と呼んでいた頃を。
そしてアーク様と初めて出会った日のことを。
ハンスはスピカが眠りについたのを確認すると、全力で走り出した。スピカが背負ってくれたお陰で体力が回復し、先ほどよりも疲労感が和らいでいた。
ハンスの思考は一つ、宣言通りに自分が囮になる。その後のことは逃げ切ってから考えれば良い。ただスピカと一緒になるつもりは無い。
今回の家族崩壊を期に、ハンスは自分の道を歩もうと決意したのだ。
空は墨で塗りつぶした黒が広がり、丸い月がぼんやりと浮かぶ、背後からは双子の命を狙う人間が迫る。
ハンスはポケットをまさぐり、五つの青い玉を取り出し後ろに投げつけた。地面に落ちるとすぐに煙があふれ出し、ハンスの後ろからは複数の咳き込む声が聞こえてきた。
(しばらくの間、大人しくしていてね)
ハンスは足止めのために、煙幕を使ったのだ。命の危険にさらされてもハンスは相手を傷つける気はないのである。
フクロウと虫の鳴き声が聞こえる。普段の状態ならばハンスの心を癒すが、逃げている今は聞いている余裕がない。
突然、茂みが揺れたと思えば、左から人影が飛び出し、ハンスは人影に押さえつけられ地面に倒れ込む。
「うわあっ! 離せよっ! 離せったら!」
ハンスは両手足を動かして抵抗するが、大人相手では彼の行動は無力だった。
「このクソガキ! 大人しくしろ!」
荒い声が響き、ハンスは頬を叩かれた。
表情はみるみる変わり、やがて大粒の涙を流して、声を上げて泣いた。
両親に叱られたことはあっても、ぶたれた経験がなく、生まれて初めて経験する痛さにハンスの心中は悲しみと怒りが混ざっていた。
「このガキ……!」
言うことを聞かないハンスに苛立ち、男はもう一度殴ろうと手を上げたその時だった。
「そこまでにしておけ」
厳しい声がして、茂みから一人の男が姿を現した。伸びきった銀髪に、赤い双眸、黒い服に身を包んでいる。
「しかし……」
「いいから下がれ、そいつの後始末は俺がやる」
銀髪の男は相手を睨み付けると、男はハンスを解放し、闇の中に消えていった。
ハンスは頬に手を当て、男を見る。
「心配するな、俺は何もしない、怖がらなくても良い」
男は先ほどとは違い、落ち着いた声でハンスに話しかける。
ハンスは怖かった。何故なら目の前にいる男は、両親を殺した相手なのだから。
「くるな、人殺し!」
地面の砂を男に投げつけ、素早く後ろに下がると、ハンスは声を振り絞って怒鳴った。
家族を滅茶苦茶にした男に図々しく話しかけられて、冷静にいられるほどハンスはお人よしではない。
「よくも父さんと母さんを! どうして殺したんだ!」
ハンスは気持ちをぶつけると、荒々しく呼吸をした。
服にかかった砂を払い、男は表情が強張らせたまま、ハンスに近づく。
「オマエの家に俺が手に入れたい物があり、盗み出そうとした。最初は人を殺すつもりは無かったが、運悪くオマエの両親が目を覚まし、口封じのためにやむ得ずやったことだ」
「そんな理由で父さんと母さんを? ふざけるな!」
ハンスは叫ぶ、子供の自分でも思いつく理由で両親を失ったのだから、銀髪の男を憎まずにはいられなかった。
男は口元を緩め、ハンスに近づいてきた。瞳の奥に深い欲望を秘めつつ……
「オマエから大切な家族を奪ったことは詫びよう」
男は魂の篭らない言葉を発した。
「だがオマエはこれで良かったと、心のどこかでは思っているのではないのか?」
男の問いかけに、ハンスの全身はぶるり! と震えた。男のいっていることは的確で、小さな少年の心を掴んでいる。スピカと共に箱を開いたのも、好奇心の裏腹に、刺激を富んだ変化を望んでいたからだ。
「オマエはもっと強くなりたいだろ? オマエを疎んでいた者達を見返すためにも、俺と共に来ればオマエは力を持つことになる、己が望んでいる以上にだ」
ハンスは何度も瞬きをする。
「どうして知ってるんだ?」
「俺は人の心を読む力を持っている。オマエが何を考えているのかもお見通しだ」
男は赤い瞳を細めた。
男の言う通りだった。彼自身は剣の腕が鈍く、いつも叱られてばかりで惨めな思いをしていた。更に屈辱だったのが姉のスピカにも戦う際には、ハンスが弱いからと手加減されていた。
あんな思いはごめんだった。
「……僕は強くなれる? 」
「約束しよう、オマエを誰よりも強くすると」
男が静かに言うと、ハンスは手を握り締める。
男は両親の仇だが言葉には惹かれる。相手の正体は分からないがここで機会を失うと一生後悔しそうな気がした。
ハンスの心は興奮で高鳴る。
「ついて来るも、来ないもオマエの自由だがな、どうするかはオマエが決めろ」
男はハンスの前に立ち、そっと彼に手を伸ばす。
両親を殺した憎悪は消え失せてはいないが、男が提示した条件の方が魅力的だった。ハンスは何の躊躇いもなく男の手を掴んだ。ひんやりと冷たく大きな手だ。
この時、ハンスは気づかなかった。男の魔法によって毒牙にかかったことに……
「僕はあなたと一緒に行く。もっと強くなりたいから」
ハンスは落ち着いた口調で言った。
「そうか良い返事で嬉しいぞ」
男と共に、ハンスは森を一緒に歩く。
男への憎悪は小さくなり、胸に芽生えたのは己を強くしたいという思いだけだった。
「僕はハンス、あなたは?」
男を見上げ、ハンスが質問する。
「俺はアークだ。今後とも宜しくなハンス」
アークは微笑み、自分の名を名乗った。
二人はその足で闇の集団の本拠地へと向かう。
ハンスは闇の集団の一員となり、各地を揺るがす殺人鬼へと成長したのである。
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