「あっちゃあ……食糧がもう空っぽだわ」
エレンは台所を見渡し、軽い溜息をついた。
昼食の準備をしようとした矢先の事だった。このままでは昼食だけではない、夕食も作れない。
「買いに行くしかないか」
頭を切り替え、エレンは財布をポケットにしまった。
食糧の多さを考えると、一人では厳しい、そこで部屋にずっといるスピカに手伝ってもらうことにした。
エレンは部屋の扉を二回叩き「ちょっと良いかしら」と声をかけた。すると扉が微かに開き、紫色の瞳がエレンを見つめた。
「……何?」
スピカは力のない声を発した。瞳は虚ろで、光を失っている。
「買い物に行きたいんだけど、荷物が多くなりそうだから手伝って欲しいの」
笑みを浮かべ、エレンは両手を当ててお願いをした。スピカは視線を下に反らす。どうやら行きたくないようだ。
「アディスに頼んでよ、わたしじゃ足手まといになるわ」
「彼は今日仕事で忙しいのよ、アンタにしか頼めないの」
実際にアディスは、大きな任務が入り、三日間ほど姿を見せていない。
「アンタがいるだけでとても心強いの、だから……ね? 帰ってきたらアンタの好物を作るからさ」
「……好物って何?」
「勿論、アンタが好きなアップルパイよ」
表情を変えてスピカが訊ねると。エレンは得意げに答えた。
スピカはアップルパイが大好物で、出た日には他人などお構い無しに、彼女独りで全て平らげてしまう。
「分かったわ……少し待ってて」
スピカは静かに扉を閉じた。ガサガサ……と何かを探る音が聞こえた。どうやら行く準備をしているようだ。
元気が無くても、好物を食べたいという思いだけは変わらず、エレンは少しだけ安心した。いや作ったとしても今のスピカが全て食べるとは期待していない。
スピカが元気を失ったのも、彼女が家族の命を奪ったからだ。どうしようもない理由だったとしても、過酷で辛い選択だった。葬儀を終えてからというものの毎日部屋に引き篭もるようになり、食事の時以外はほとんど顔を出さなくなってしまった。
買い物もそうだが、スピカに外の空気を吸って欲しいという願いもあった。
三時間ほどで買い物を終え、エレンとスピカは帰り道を歩いていた。少女達の両手には食糧を詰めた買い物袋が握られている。
「これでしばらくは持つわね」
エレンは嬉しそうに言った。市場では安売りをしており、経済的な面で特をしたからだ。
外に出てからも、スピカは元気が無さそうだった。むしろ人ごみにもまれて疲労の色が垣間見える。
無理に外に出させて、悪い事をしたかな……とエレンは今更ながら思った。それでもスピカのお陰で、一か月分の食材を買えたので、スピカには感謝しなければならない。
「今日は有難う、アンタのお陰で助かったわ」
エレンは隣で歩くスピカに礼を言う。
スピカはしばらくエレンの顔を見たが、前を向いてしまい、何も喋らなかった。
心に負った傷は深く、外に出て買い物をした位では癒せない、長い時間が必要なのが目に見える。
エレンの胸は痛かった。身近にいるのに、辛さを代わってやれないことが。
できる事と言えば、気晴らしをさせたり、手伝いをさせて役割を与えることだ。
そうすることによって自分が役に立っていると思え、生きる原動力になると信じているのだ。
もし役割を失えば、スピカは本当に自らの命を絶ってしまう危険がある。
「帰ったら美味しいアップルパイ作るからね!」
エレンは微笑んだ。全部は食べないだろうが作りたかった。心の痛みを紛らわせるためにも。
石に気付かず、スピカは思い切り地面に転倒してしまった。袋からは食糧が転がり落ちる。
「大丈夫?」
高い声を出し、エレンはスピカの元に駆け寄る。
見る限り、怪我をしておらず安心した。
安心するも束の間、スピカはそのまま動かなかった。一点に視線を注ぎ、目を反らさなかった。
様子が可笑しいスピカに、エレンの顔色は変わった。
「……どうしたの?」
声をかけるも、スピカは答えない。
彼女が見ている先に、興味を引くものでもあるのかと思い、エレンもスピカが向いている方角を見る。
そこには、かつてハンスと戦った病院の屋上があった。
スピカにとって思い出したくない、苦く、そして悲しい記憶が残る場所だ。
「ハンス……」
小さな声で囁くと、双眸からは涙が零れ、地面に落ちる。
「ごめん……ね」
瞳を閉じ、スピカは気絶した。エレンはスピカの体を抱き止める。
「スピカ! スピカっ!」
エレンは友の名を何度も叫ぶが、彼女は目覚めなかった。
明るい雰囲気の酒場で、エレンは一人でお酒を飲んでいた。
頬が赤く、頭もくらくらする。
「おい、エレン、もうよせよ、これで三杯目だぞ」
左側の席に座っている少年・リュークはエレンに注意した。
だが、エレンはリュークに食って掛かる。
「いいじゃない、お酒ぐらい、アタシだって飲みたくなる時だってあるわよぉ!」
しゃっくりをして、エレンは「マスターもう一杯!」とグラスを差し出す。
リュークはアディスの友達で、酒場に気晴らしによく来る。
エレンもスピカとたまに来るが、一人できたのは初めてだ。
「あっはっは! お酒最高だわ!」
興奮して、エレンは席を立って体を回転した。
エレンは酒癖が悪く、酔っ払うと手がつけられなくなる。
見かねてリュークが再度声をかけた。
「やめろって、人が見てるじゃないか」
リュークはエレンの肩を引っ張った。
「いいじゃないの、お酒が美味しいんだから、何だったら服を脱いでダンスでもしてあげましょうかぁ?」
気分が高まり、エレンは大胆なことを口走る。
普段のエレンからは考えられない言葉だった。
「とりあえず落ち着けって」
リュークはエレンを席に座らせた。
意見が通らなかった事が気に食わなかったのか、エレンはリュークを睨む。
「スピカはどうしたんだよ、いつも一緒だったろ?」
「あの子は入院したわ、しばらくは安静が必要だって」
エレンはさらりと大切な事を言った。
スピカが倒れてから直ぐに病院に連れて行き、医者からは命に別状は無いが精神ショックを受けており、しばらくの間は入院が必要だという。
はっきり言って悔しかった。
もっと注意していれば、スピカを追い詰めないで済んだかもしれない、
考えるだけで悲しかった。ヤケ酒を飲むのは、罪悪感を紛らわすためだ。
「入院!? どこか体の具合が悪いのか?」
「そんな所ね、医者には散々責められるわでやってられないわよぉ」
マスターからグラスを受け取り、エレンはお酒をちびちび飲む。
「アタシは、あの子を外に連れてってあげただけなの、気持ちも少しは変わるかなって、本当にそれだけよ! 病気にしたかった訳じゃないわ!」
エレンは声を荒げ、グラスをテーブルに叩きつけ、中身が零れた。
グラスを手に持ったまま、エレンはテーブルに顔を当てる。
「せっかくアップルパイを作ろうと思ったのに、最悪だわ」
お酒を半分飲むと、エレンは黙った。
話を聞き終え、リュークは口を開いた。
「過ぎたことはどう抗っても変えられない、今できる事を考えた方が良いんじゃないか?」
「言うわね」
エレンは口を尖らせる。
「だってそうだろ、終わった事を悔やんでもどうにもなんないだろ」
ぶっきらぼうに、リュークは語る。
本当に簡単な答えだ。壊れてしまった皿は嘆いても元には戻せない、だから別の皿を買うしかない。それと同じだ。
「もうウジウジ悩むのはよせよ、スピカはあんたが酒に酔った姿を見たくないはずだ。俺だって嫌なんだからな」
「リューク……」
エレンはリュークの顔を凝視する。
彼とはあまり付き合いが無く、よく分からない人物だったが、こうして話してみると、かなり人柄の良い男だというのが分かった。
「俺さ、アディスと見舞いに行くよ、あいつのことだから心配するしな」
リュークは自信有り気に言った。
アディスはまだスピカが入院したことを知らない。
「アンタとは話す機会がほとんど無かったけど、アンタ優しいのね」
エレンは素直な気持ちを話した。
リュークは照れくさそうに、顎を人差し指でかいだ。
「……ありがとう」
最後までお酒を飲み干し、エレンは笑った。
そして、自分は独りではないと、身に染みて感じた。
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