「起きて」
知らない声が聞こえる。
声に誘われる形で、ほのかは瞼をゆっくりと開く。
ほのかの前には薄紫色の髪に、青色の双眸の女性が立っていた。
ほのかの記憶からして女性とは面識がない。
周囲は暗闇に包まれ、自分と女性以外何も見えない。
不可解な状況だが、ほのかは目の前にいる女性の方が気になった。
「あなたは……誰?」
ほのかは警戒混じりに訊ねる。
「アタシはモイーラ、今井ほのか、アナタは覚えているかしら? ここに来るまでの経由を」
ほのかは困惑していた。
知らない女性からフルネームで呼ばれたためだ。
「どうして私の名前を知ってるの?」
ほのかは疑問を口にした。
しかしモイーラは答えない。
モイーラと名乗る女性は無表情のままほのかに近づく。
ほのかは相手の不気味さに、両手を使って後ずさる。
立って逃げる方が早いが、そこまで考えられなかった。
ほのかが初対面の人間に強く警戒するようになったのは、幼い頃に知らない人に声をかけられ誘拐されかけたことが原因だった。
「何で逃げるの、アナタの記憶を呼び起こそうとしてるのに」
「私の質問に答えないからよ」
ほのかは強く言った。
モイーラは足を止めた。そしてほのかに向けて手を伸ばした。
「!?」
次の瞬間、ほのかの体がひとりでに浮いた。
「アタシは運命を司る神だからよ」
その言葉を最後に、ほのかの脳裏には記憶が流れ込む。
ほのかは夜道を歩いていると、そこに一台の車が走ってきた。ほのかは避ける間もなく車に衝突してしまった。
「なによ……これ……」
ほのかは頭に手を当てた。
「アナタが死ぬ瞬間の記憶よ」
モイーラは淡々と語る。
「私……死んだの?」
ほのかは唇を震わせた。
受け入れたくはないが、車に当たった際の激痛と、地面に叩きつけられた衝撃がじわじわと蘇ってきた。
ほのかは両手で自分の体を抱き締めて、身を屈める。
「嘘よ……」
ほのかは自分が死んだことが信じられなかった。
「残念だけど事実よ」
モイーラははっきり言い切った。
ほのかは両親の期待に応えるために学校での成績は常に上位で、偏差値が高い高校に入るために日々頑張っていた。
この日もいつものように塾から帰ろうとしていた。もう成績のことを褒めてもらえない。
もう母のビーフシチューが食べられない。
思うだけで悲しかった。
「死にたくない……」
ほのかは呟く。
こんな形で、命を落とすのは納得できなかった。
ほのかは立ち上がると、モイーラに自ら近づいた。
「モイーラ……だったわよね、あなた神様なんでしょう、何でもできるはずよね」
ほのかは更に続ける。
「お願い私を生き返らせて、まだやらなければならない事が沢山あるの」
ほのかはモイーラを見つめた。
モイーラのことは不気味に感じるが、不思議な力を使って立たせたり、記憶を蘇らせる所はただ者ではない。
モイーラが神と名乗るなら、生き返らせることも可能だと思ったからだ。
「無理よ」
「どうして?」
納得しきれずに聞き返した。
「今井ほのか、アナタが死んだのは運命、それを覆すことはできない」
「そんなのは嫌っ!」
ほのかは耐えきれずに叫ぶ。
両目から涙が溢れて、頬を伝った。
「納得できない! 私の帰りをお母さんとお父さんが待ってるのに!」
ほのかは感情を爆発させ、両手を顔に当てて泣いた。
どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのか、交通事故で死ぬのは理不尽だ。
注意していたつもりなのにあっけなく終わるのも理解できない。
泣く様子を見ていたモイーラは一歩前に出た。
「アナタは家族に会いたいようだけど、これを見てもそう言えるかしら?」
モイーラに聞き返す間もなく、ほのかの目の前は光に包まれた。

気付くと、ほのかの前には両親がいた。
使い慣れたテーブル、ほのかが飲むダージリンの香り、お洒落な額縁の絵などほのかが住んでる家だ。
「お母さん! お父さん!」
ほのかは微笑んで二人の元に駆け寄る。
二人にただいまと言いたかった。
自身が死んでいることを忘れて……
「あの子が案外早くいなくなってくれて良かったわ」
母親の口から信じられない言葉が飛び出した。
ほのかの表情は笑顔から一転凍りつく。
「これであなたとも別れられるわ」
母親は離婚届を父親に出した。
「お前は……自分の娘のことを何とも思わないのか?」
父親は怒りを滲ませていた。
「あの子は私にとって枷だったからね、死んでくれて清々するわ」
耳を疑う言葉を母親が口走り、ほのかはその場に呆然と立ち尽くす。
母親は優しく、料理が上手で、ほのかにとって尊敬できる人だ。
そんな母親が子供である自分の存在を否定しているのが衝撃的だった。
母親の口からは更なる事実が告げられる。好意を抱く男性がいてほのかが高校生になったら父親と別れて一緒に暮らすつもりだったという。
ほのかの親権は父親に譲る予定だったらしい。
「嘘よ……こんなの信じない……」
ほのかの全身が震え、涙が再びこぼれ落ちた。

再度空に戻っても、ほのかは泣いていた。
ほのかの両親は自分を大切にしてくれていた。誕生日は欠かさず祝ってくれて、風邪になって寝込んだ時は付き添ってくれたり……
なので母親の言葉が信じられなかった。
「……どうして泣くの?」
モイーラが水を差すようなことを呟く。
「アナタは死んだ人間で、もう母親とは会うことはない」
モイーラの言い方にカチンときたほのかは、モイーラに詰め寄った。
モイーラは自分を神様と言っているが、今の発言はほのかの心境を配慮していない。
「何でそんな言い方するのよ!」
ほのかの声は怒りが滲んでいた。
「……さっきの母親の話を聞いても、アナタは平気なの?」
モイーラは無表情で語り、ほのかは表情を歪ませた。
平気だと言うと嘘にはなる。
母親が娘より自分のことしか考えてないのが嫌でも理解できた。
「アナタの母親は娘のアナタがいながらも他の男性と付き合っていた。勿論アナタや父親にばれないように細心の注意を払いながらね」
「……」
ほのかの耳が熱くなるのを感じた。
信じていた肉親の裏切りと、心の痛みが合わさっていた。
「……モイーラ、一つ聞いてもいい」
痛みに耐えながら、ほのかは訊ねる。
「何かしら」
「私はこの後どうなるの?」
ほのかの問いかけに、モイーラは瞳を閉じて黙り込む。
しばらくしてモイーラは目を開けた。
「アナタには二つの選択肢がある
一つは転生して新しい生を受ける。
この場合は生前の記憶を消されるけど、人間として生まれ変われる。
もう一つは天界の住人になって、死んだ魂を導く役割を果たすことになる
この場合は生前の記憶は引き継がれるけど二度と生まれ変わることはできない」
モイーラは二本指を立てる。
「よく考えて答えを出すことね、言っておくけど母親に復讐したいという考えは捨てて、アナタが手を下さなくても罰を受けるから」
モイーラの指摘に、ほのかの全身はぴくっと動く。
「私は復讐なんて……」
「忠告よ、穢れた考えは不幸を招くだけだから」
ほのかが反論しようとするとモイーラに釘を刺された。
母親の言動に憎しみを感じ、仕返しをしたかったがモイーラの言葉が元になり、沸き上がった怒りを抑えることにした。
モイーラは転生か、永遠にあの世で生きるかどちらかを選べと。
……私にとっての幸せは。
新しい人生を生きるのも一つの生き方だ。そうすれば今見たことも全部忘れられる。
記憶を引き継いだままなら、母親が魂になった時に色々話を聞けるかもしれない。
ただしその場合は二度と生まれ変われない。
……うん、決めた。
ほのかの考えは決まった。
「私……天界の住人になる」
ほのかは静かに言った。
「どうしてかしら?」
「私の母親が死んだ時、私が迎えに来られるでしょう、そしたら色々聞きたいのよ、私を産んでどう思ったかとかね」
「よく考えてのことかしら? 天界の住人になったらアナタ二度と生まれ変わることが出来ないのよ」
モイーラは訊ねた。
彼女なりに心配しているのかもしれないが、気遣いは無用である。
ほのかの決意は変わらないからだ。
この先死後の世界に来るであろう母親に直接会い確かめたかった。
「構わないよ、自分の肉親のことは自分で確かめたいの」
ほのかは真剣な眼差しを浮かべていた。
モイーラはほのかの気持ちを汲み取り「分かったわ」と答えた。
「今井ほのか、アナタを天界の住人として天界に招くことにするわ
天界には色んな人がいるけど、すぐに慣れるわ」
モイーラは手を伸ばし、ほのかの頭の上で止まった。
「目を閉じて、今のアナタは穢れていて天界に入れないから不都合な記憶は取り除くわ」
「不都合って?」
「憎しみとか、恨みとかそう言ったものよ、心配しなくても母親の記憶は残るから」
モイーラの言葉に少しだけ安心し、ほのかは目を閉じる。
ほのかの全身が温かくなった。同時に先程の母親の言動がみるみると小さくなり、やがてほのかの中から完全に消え去った。
母親のことだけでなく、生前ほのかを縛っていた負の記憶は風船が割れるかのように次々に無くなった。
「終わったわ」
モイーラに言われ、ほのかは目を開く。
「どうかしら、母親に対する印象は」
ほのかは母親のことを思い返してみた。
ほのかのために美味しい料理を作ってくれたり、時には叱ることはあっても愛情が伝わってきた。
「私のことを大切に思ってくれる人よ」
「それなら大丈夫ね、行きましょう」
モイーラは安心したように言った。

こうしてほのかは生まれ変わりを代償に、あの世で永遠に生きる運命を選んだ。

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